行成に絡む怨霊
藤原朝成 917~974
ふじわらのあさひら
父は三条右大臣藤原定方、母は藤原山蔭女。
兄に同じく従三位中納言に至った藤原朝忠がおり、たまに混同されています。
天慶四年(941)四月、二五歳の時に昇殿を許され(同時期に藤原伊尹も18歳で昇殿)、同九年八月に、これまた伊尹と一緒に蔵人頭に補されます。
天徳二年(958)に参議に任じられ(伊尹は遅れること2年、天徳四年に参議)、その後は伊尹の方が先にどんどん出世して、朝成がやっと権中納言になる安和三年(970)に伊尹は右大臣に、中納言に転正する天禄二年(971)には摂政太政大臣となっており、その差は如何ともしがたいものになってしまいます。
最終官位は従三位中納言、天延二年(974)に五十八歳で薨じます。
朝成と伊尹の官職争い→朝成の怨霊化は当時から有名でした。
伊尹の子孫である行成にも祟りをなしたという事については詳しく紹介しますが、それ以外にも『宝物集』によると、花山院が十九歳で出家してしまったのも、挙賢義孝前後少将が同日に亡くなってしまったのも、義懐中納言の出家もみんなみんな朝成の怨霊のせいと考えられていたようです。
『大鏡』では伊尹と蔵人頭争いをして敗れ、伊尹との仲が悪くなったように書かれておりますが、他の説話『古事談』『続古事談』『十訓抄』などでは参議昇進(『十訓抄』は中納言昇進)をめぐって朝成が伊尹は無能だと放言してまわった(最初にケンカ売ったのは朝成だったのかw)のが事の発端として書かれています。
この辺史実かどうかはっきりとはわからないのですが、同時期に蔵人頭になった伊尹の参議昇進が朝成より2年も遅れている辺り実際にも何かあったのかもしれません。
朝成の性格をうかがわせるような話としては『十訓抄』にこんな話があります。
朝成が検非違使別当だった頃、中納言の地位を願って石清水八幡宮に詣で、そこの神主に「俺には強盗百人の首を切った功があるから、それでもって今度中納言になれるように祈って欲しい」と頼みました。
神主はびっくりして「ウチの神さまは殺生を嫌います。どうしてそんなことでお願いできましょう」と言って断ります。
朝成は「殺生禁断の事は八幡神の御託宣にもあるから知っておる。でもその託宣の最後に『悪人が出た際、国家を思う臣がそれをする場合はこの限りではない』とあるではないか。いいから神さまに中納言になれるようお願いしてくれ!」と主張しました。
神主は仕方なく神にその旨申しあげたところ朝成は中納言になることができました、ってな話です。
なんというか…ちょっと死体見かけただけでも行き触れだ物忌みだって騒ぐのが平安貴族ってなイメージなのに、百人も強盗の首ぶった切ってしかもそれをネタに神さまに昇進お願いしちゃうなんて、、、すごい野生的w
兎に角、外見も中身もキョーレツなお人だったようです。
その辺は旧サイトに上げてた朝成ネタの古典の訳がありますので、見直ししてから再UPしようと思ってます。
その朝成の邸ですが、三条西洞院にあって「鬼殿」とも呼ばれ、伊尹一族の人間は決してそこに足を踏み入れなかったのだそうですよ。
藤原朝成が登場する説話等
→『大鏡』第三 伊尹伝より
→『続古事談』第二 第六話(四二)
→『今昔物語集』巻第二十八 第二十三
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