カテゴリー「古典に見る藤原行成」の25件の記事

2009年9月13日 (日)

『大鏡』第三 伊尹伝より

行成ネタその参 和歌の事

 この大納言行成さまは何事もそつなくこなしてしまえる多才な方なのですが、和歌だけは少々苦手とされていたようです。

 ある日、清涼殿にて和歌について論議しようという事になりました。
和歌に熱心な方々が、どのように歌のやり取りをするのがよいかなどと、まぁ歌についての話題以外、話にのぼらない有り様だったのですが、行成さまは黙り込んだまま何も言いません。
同席していた方が、どうしたのだろう?と思い
「難波津に咲くやこの花冬籠り・・・・行成殿はこの歌をどう思われますか?」
そう行成さまに話を振ったのです。
行成さまはしばらくの間、何も言わず、ひどく考え込んでいるようなそぶりをして
「さぁ、よくわかりません」
とだけ答えたので、その場にいた人達はみんな大笑いしてすっかり座がしらけてしまい、和歌論議の方はそれっきりになってしまいました。


   ~~~~~~〈以下解説?〉~~~~~~

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2009年8月30日 (日)

『江談抄』(二七)より

行成大納言、堅固の物忌を為すといへども、召しに依り参内する事


 行成大納言が蔵人頭だった時のことです。
厳重に物忌みをしなくてはならない日だったので自宅に籠もっていたところ、宮中より大事な用があるからとお召しがありました。
行成は参内すると、内裏で急に気分が悪くなったのです。
恐ろしく思いながらも清涼殿に参上しました。
主上はすぐに様子がおかしいのに気付き、
「誰だ、あれは」
声をあげて仰せになります。
するとすぐに、主上の声に応じて
「朝成である」
と声が返ってきました。
主上は行成に取り憑いた物の怪が御簾内に入って来れぬようにし、
行成は主上のお側近くに参って物の怪から逃れたと聞いています。
 これはつまり、行成の祖父一条大将伊尹と朝成が大納言職をめぐって敵対したことから、孫である行成に祟ろうとしたのであろうとのことです。

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2009年7月20日 (月)

『大鏡』第三 伊尹伝より

行成ネタその弐 怨霊に狙われるの巻(後編)


ある日、藤原道長さまは奇妙な夢を見ました。
紫宸殿の北廂、そこは清涼殿に参上するときに必ず通る所なのだけれど、そこに人が立っているのです。
道長さまは、誰だろう?と思って、よく見ようとするのですが顔が戸の上に隠れてしまっていてはっきりと見えません。
不思議に思って
「誰だ?誰なのだ?」
何度も問いかけると
「朝成でございます」
そう応えが返ってきました。
道長さまは夢の中とはいえ非常に怖く思いましたが、ぐっとこらえて
「何故そのような所に立っておられるのか?」
「頭弁の藤原行成が参内するのを待っているのです」
人影がそう言うと道長さまは、ハッと目を覚ましました。
「今日は朝廷で行事のある日だったな…行成殿は早朝から参内してしまうだろう。いかんな」
道長さまは筆を取ると「貴殿の身の上に関して、良くない夢を見みた。今日は病欠届けでも出して物忌みを厳重になされよ。参内してはいけない。詳しいことは直接会って……」と書きつけて急いで送りました。
ところが行き違いになってしまい、行成さまは朝とても早いうちに参内してしまいました。

行成さまは神仏のご加護が強かったのでしょうか。
その日はいつもの道を通らずに北の朔平門から入って藤壺と後涼殿の間を通って清涼殿に参りました。
清涼殿にいる行成さまを見て道長さまは驚き、
「どうして参内しているのだ。手紙を差し上げたのだが御覧になっておらぬのか?実はそなたの事で嫌な夢を見たのだ。早く退出なさるが良いですぞ」
と言います。
行成さまは心当たりがあるのか、手をポンと軽く打つとどんな夢かも問わず、また二言と口をきかずにすぐさま退出してしまいました。そして祈祷などをしてしばらくの間は参内すらしませんでした。

この物の怪、すなわち藤原朝成さまの家は三条大路の北、西洞院大路の西にあります。今でも伊尹さまの一族は、ほんのちょっとの間でも足を踏み入れようとはなさらない場所です。


    ~~~~~~〈以下解説?〉~~~~~~

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2009年6月19日 (金)

『大鏡』第三 伊尹伝より

行成ネタその弐 怨霊に狙われるの巻(前編)


 この話は皆様ご存知のことだと思いますが…
中納言藤原朝成卿と一条摂政藤原伊尹公は同時代の殿上人でした。
家柄の点では伊尹さまに劣っていましたが、学才も人望も優れた人物です。
そんな朝成さまが蔵人頭になれそうな機会がめぐってきた折、伊尹さまも次期蔵人頭にふさわしい立場でした。
朝成さまは
「伊尹どのは今回の人事で蔵人頭にならぬとも、世間の人があれこれ悪く言うことはありますまい。それに、貴殿なら後々いつでも蔵人頭になれましょう。しかし私は今回なり損ねると非常に情けない思いをする事にになるだろうから、伊尹どの、今回は蔵人頭を希望なさらないでくだされ」
そう頼み込みますと、伊尹さまは
「わかりました。では今回は願い出ないでおきましょう」
と言いったので、朝成さまは、うれしい事だと安心しておりました。
ところが、伊尹さまはどう気が変わってしまったのか、朝成さまに何の断りもなく蔵人頭になってしまったのです。
朝成さまは「話が違うではないか、よくも騙したな!!」と非常に腹を立て、それ以後二人の仲はとても悪くなり、そのまま月日が経ってしまいました。

 そのうちに、朝成さまが伊尹さまの家来の一人に失礼なことをしたという事を伊尹さまは聞きつけ
「蔵人頭の職を取られて不本意に思うのはわかるが、どうして何かにつけて我らに対してこのような無礼な態度をとるのだろうか」
そう腹を立てているということを朝成さまは耳にしました。
そこで朝成さまは「決して悪意はなかったのだ」という事を申し上げて誤解を解いてもらおうと、伊尹さまのお邸に出向きました。

 当時、自分よりも身分が上の方の所へ行った時は、相手のほうから「どうぞ、こちらへ」と案内がないうちに邸へ上がったりはせず、屋外に立って待っていたのだそうです。
 この日は、六・七月の非常に暑くて耐えられない頃でした。
朝成さまは訪問の理由を取り次ぎの者に伝えると、今か今かと中門の所で立って待っていましたが、次第に西日が射し込んできて、暑くて耐え難いどころじゃありません。
気分も悪くなってしまいそうで
「ハナから伊尹どのはこの私をあぶり殺そうと思っているのではないか?わざわざ参上して意味のないことをしてしまったものだ」
そう思うと、伊尹さまへの憎悪が湧き起こるなんてなまやさしいものではありません。
夜になってしまったので、このままでいるわけにもいかず朝成さまは持っていた笏をぐっと握りしめ、立ち去ろうとするとバキョっと笏が音を立てて折れてしまいました。
いったいどれほどの念を込めて握ったのでしょうか…
 さて、朝成さまは自宅に帰ると
「伊尹の一族は絶対に根絶やしにしてやる。たとえ息子や娘がいたとしても、まともな人生を送らせるものか。気の毒だ、などと言う奴がいたらそいつも恨んでやる!」
などと誓って亡くなってしまいました。
そして朝成さまは伊尹さまの御一族に代々祟る悪霊となってしまったのです。
 こういったわけで、まして行成さまは伊尹さまの孫で近い血筋なので本当に恐ろしいことです。


  ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年5月23日 (土)

『撰集抄』巻八 第十八より

実方中将桜狩ノ歌ノ事

 昔、殿上人たちが花見をしようと東山に出かけたのですが、心ない俄か雨に降られて大騒ぎになりました。
そんな中でただ一人、実方の中将は少しも騒がず桜の木の下に身を寄せて

「  さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にやどらん
花見に来たら雨が降ってきた。どうせ濡れてしまうのなら桜のかげで雨宿りしようじゃないか

そう詠み、他の人たちのように牛車の中などに避難しようとしなかったので、桜の木から滴り落ちてくる雨水にぐっしょり濡れて、びしょびしょの装束をしぼりかねてしまうほどでした。
この実方の行動を、人々はとても風流なことだと思い感心したそうです。


 翌日、斉信の大納言が主上に
「こういった面白いことがあったのですよ」
と実方のことを申し上げたところ、その場にいた行成…当時は蔵人頭でしたが、
「歌は面白いですね。だが実方殿はバカですよ…」
などと言ったそうです。
この行成の言葉を実方は耳にして、行成のことを深く恨んだと聞いております。


   ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年5月22日 (金)

『十訓抄』八ノ一より

行成vs実方

 大納言藤原行成卿が、まだ殿上人だった時のこと。
実方の中将は一体何に腹を立てていたのでしょうか、清涼殿の殿上の間で行成と顔を合わせた途端、何も言わずに行成の冠を叩き落として庭に投げ捨ててしまったのです。
行成は少しも騒ぐことなく近くにいた主殿寮の役人を呼びました。
「冠を取ってきてくれないか」
そう言うと、冠をかぶり直し、守刀から笄を抜き出し髪の毛のほつれを整え、居ずまいを正して実方のほうへ向きました。
「一体何があったのでございますか?いきなりこんな酷い仕打ちを受けなければならない覚えが私にはないのですが…。理由をうかがった上でどうするか考えたく存じます」
行成があまりにも丁寧に言われたので、実方は拍子抜けして逃げ去ってしまいました。

 それをちょうど主上(一条天皇)が、御座所から小蔀ごしに御覧になっていて
「行成は何と立派な人物だろうか。あれ程まで落ち着いて思慮深い男だとは思わなかった」
そうおっしゃると、ちょうど蔵人頭の職があいていたので、多くの人を越えて行成を任命なさいました。
一方、実方に対しては、中将の職を取り上げて、
「歌枕の地を見て参れ」
と、お命じになると陸奥守に任じて奥州の国へ左遷なさってしまいました。
そして、実方はその地で亡くなってしまいました。。

 実方のほうこそ蔵人頭になりたいと望んでいたのに…
その願いもかなわず死んでしまったという執念がこの世に残って雀となり、殿上の間の小台盤の上に飛んできては、そこの御飯をつついているとか。
誰かが言っていたそうですよ。
 一人は我慢が足りず前途をなくし、もう一人は耐え忍んだことで褒賞に預かった。これはその典型的な例なのです。

   ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年5月 3日 (日)

『古事談』百三十三 

行成、俊賢ノ恩ヲ忘レザル事の巻



 行成さまは不遇な自分の将来に失望しヤケを起こして、「今すぐにでも出家してやる」と思いました。
俊賢さまが蔵人頭だった頃の事なのですが、俊賢さまは行成さまの家へ行くと、出家しようとしていた行成さまを止めて尋ねます。
「代々伝わっているような家宝はあるか?」
「宝剣がありますが…」
「ではそれを早く売って金を作り祈祷をしなさい。私はね、そなたを次の蔵人頭に推挙しようと思っているのだよ」
俊賢さまはそう言いました。
おかげで、四位で無職も同然だった(前兵衛佐で、備後介)行成さまは蔵人頭に任じられました。

 中納言になってしばらくの間、俊賢さまよりも行成さまのほうが身分が上だったのですが、俊賢さまの御恩を思って決して俊賢さまよりも上座に座らなかったそうです。

 ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年4月30日 (木)

『大鏡』第三 伊尹伝より 

行成ネタその壱 蔵人頭になるの巻


 義孝の少将さまが桃園の源中納言保光卿の姫君と結婚してできた御子がね、今の侍従大納言行成卿、あの天下の能書家と名高い方ですよ。
 行成さまの男のお子様達の中で、今の但馬守実経さまと尾張守良経さまの二人は源泰清の三位さまの姫君(姉君)が産みました。
正妻(妹君)の子は少将行経さまです。
姫君は、藤原道長さまの子で高松殿腹の権中納言長家さまの北の方でしたが、亡くなってしまいましたよね。
あと、姉君腹の中の君は今の丹波守源経頼さまの北の方になっています。
他に長女の大姫さまがいるとか。



 この行成さまこそが、備後介でまだ地下人で昇殿もできぬ身分だったのに、一挙に蔵人頭になった方なのです。
こういった例は非常に珍しいことですよね。

 その当時、源民部卿俊賢さまが蔵人頭でしたが、参議に昇進する予定だったので一条天皇は俊賢さまに
「そなたの後任は誰が適当であろう?」
そうお尋ねになりました。
「行成こそが私の後任にふさわしい者でございましょう」
俊賢さまが申し上げると、主上は少しためらっているご様子。
「行成は地下人だ。地下の者を蔵人頭にするのは……」
「主上、あの者は実に貴重な人物でございます。地下人だからといって気になさる必要はございません。末永く主上の側近く仕えるのに充分力量のある者でございます。あのような優れた人材を登用しないのは世の為にも良くないことです。君主たる御方が物事の道理をわきまえていらっしゃればこそ、人々も心を尽くして主上にお仕え申し上げるのです。この機会に彼の者を蔵人頭になさらないのなら、多大な損失となりましょうぞ」
そう言って俊賢さまが推挙なさいましたので、まぁ当然の結果とはいえ行成さまが蔵人頭になりました。

 なんでも、昔は前任の蔵人頭が後任を推挙して任じていたのだそうですよ。
そこで、殿上人たちのなかで、「自分こそが次の蔵人頭に違いない」と思っていた方が、今宵任命があると聞いて参内してきました。
そして宮中のとある場所で行成さまとばったり顔をあわせたのです。
「そなたは誰だ?」
不審に思いながらその方が尋ねると、行成さまは名前を名乗って言いました。
「蔵人頭に任じていただきましたので、参内したのでございますよ」
その行成さまの言葉に相手の方は茫然自失、そのまま身動きもせず立ち尽くしていたとか。
たしかに思いもよらぬ人事でしたから当然でしょうね。



 行成さまは俊賢さまが自分を推挙してくれたことを良くご存知でした。
行成さまが従二位なった時でしたかね、行成さまの位が俊賢さまを越えたのですよ。
けれど、行成さまは決して俊賢さまの上座に座らなかったのです。
俊賢さまが出仕する日は、ご自分は病欠の届けを出し、どうしても一緒に出仕しなければならない日には向かい合わせの席に座りました。
 その後、俊賢さまが正二位に昇ると以前のように行成さまの身分が俊賢さまよりも下になったので、そのような気遣いがいらなくなりました。



 それにしても、この伊尹さまの一族は蔵人頭をめぐる争いで代々敵をつくってしまうようでしたので、はたして行成さまは何事もなく無事過ごすことができるのでしょうかね。

 ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年4月27日 (月)

『枕草子』七段

上に候ふ御猫は

 主上のおそばにいる猫は五位に叙されていて、「命婦のおとど」って呼ばれているの。
とても可愛い子で、大切にされています。
その猫が縁側に出て寝っ転がっているので、世話係の馬の命婦って女房が
「まぁ、お行儀の悪い。中にお入りなさい」
と呼ぶのだけれど、
猫は日が射し込んでポカポカしている所にごろ~んと横になって動こうとしません。
馬の命婦は驚ろかせてやろうと思って
「翁まろ、どこなの?命婦のおとどに噛みついておやり」
などと言ったのです。
本気にしたおバカさんの翁まろ(犬)は、本当に猫に襲いかかったので、
猫は飛び上がると怯えうろたえて、御簾の中へ走り込みました。
ちょうど主上が朝餉の間にお出ましになっていた時で、
この様子を御覧になってビックリなさいます。
主上は猫をご自分の懐に避難させると、殿上の男たちをお呼びになりました。
蔵人の忠隆が参上します。
「この翁まろを打ちすえて、犬島へ流してしまえ!早く!」
主上がそう仰せになるので、
男たちは寄ってたかって翁まろを追い立て大騒ぎとなったの。
主上は馬の命婦もお責めになります。
「世話係はかえる。彼女では心配だ」
怒っておいでなので、馬の命婦は畏れ入って御前にすら出てきません。
犬は狩り立てられて、滝口の武士たちに追放されてしまいました。
「あらあら、今までは得意になって御所中を歩き回っていたのに。三月三日には頭弁の藤原行成さまが柳のかづらを頭にのせて、桃の花を挿頭にして、桜を腰に挿したりして飾り立てて歩かせなさっていたのにね。あの頃はこんな目にあおうとは思っていなかったでしょうに……」
などなど、女房たちは気の毒がっています。
「中宮さまがお食事の時は、必ず御前にいたのに、いないのはなんだか淋しいわね」
そんな事を言い合ったりして、三・四日ほどたった昼頃のこと。
犬がひどく鳴いているようなので、
一体どこの犬が、こうも長い間鳴き騒ぐのかしら?と思っていると、
他の犬たちが様子を見に走っていくの。
御厠人の下女が走ってきて
「あぁ、なんてことでしょう。犬を蔵人の方が二人がかりで打ちすえていらっしゃる。あれでは死んでしまいます。犬を流刑なさったのですが、帰ってきてしまったとの事で、こらしめておいでです」
可愛そうに……。あの翁まろなの。
「忠隆殿、実房殿などが打ちすえています」
そう言うので、止めに人をやるうちに、ようやく鳴き声がやみました。
「死んだので外に引きずって行って捨ててしまいましたよ」
などと言うので、不憫に思っていると、
夕方に、たいそう腫れあがった汚らしげな犬で、辛そうなのが、
ぶるぶる震えながら歩いています。
「翁まろなの?こんな犬がここにいるわけないものね」
「翁まろ」
呼びかけても、応えない。
「翁まろだわ」
「違うわよ」
女房たちが口々に言い合うので、中宮さまは
「右近なら見分けがつくでしょう。呼びなさい」
という事で、右近内侍が参上しました。
「この犬は翁まろかしら?」
そう仰って犬をお見せなさる。
「似てはおりますが…これはまた、とても酷いありまさで……。それに、普段なら『翁まろなの?』と言っただけで喜んでやって来ますのに。呼んでも私の所へ寄りつきもしません。違うようにも思います。翁まろは打ち殺して捨ててしまった、と申しておりました。二人がかりで打ちすえていたのに生きているのでしょうか」
などと申し上げるので、中宮さまは可哀想に思っておいでのようです。
暗くなり、何か食べさせようとしたけれど、口を付けないので、
別の犬だという事で終わってしまいました。

 その翌朝、中宮さまは御髪をとかし、お手洗いの水などをお使いになっていて、
鏡を私に持たせなさって、御髪の様子などを御覧になっていると、
あの犬が柱もとにうずくまっているのが見えます。
「あぁ、昨日翁まろをたいそう打ちすえてしまって……。おそらく死んでしまったのでしょうけど、可哀想に。一体次は何に生まれ変わるのかしら。どんなにか辛い気持ちだったでしょう……」
そう呟いていると、このうずくまっている犬がぶるぶる震えて涙をポロポロこぼしたの。
驚いたことに翁まろだったのです。
「昨日は隠れてじっとしていたのね」
可哀想であると同時に、とても興味深いわ。
鏡を置いて
「おまえは翁まろなのかい?」
私がそう言うと、伏せてたいそう鳴きます。
中宮さまも驚きながらもお笑いになっています。
右近内侍を召して、事情をお話になり、みんなも笑いながら大騒ぎしていると、
主上もお聞きになって、こちらへお出ましなさいました。
「ほう、驚いたことに犬などもこのような心があるものなのですね」
主上も笑っておいでです。
主上付きの女房たちもこの事を聞きつけ集まってきて、
翁まろに声をかけるのにも、今度は立ち上がって寄ってきます。
「やはり顔が腫れ上がっているわ。手当をさせてやりたいわ」
そう私が言うと
「とうとう、あなたが翁まろ贔屓だってことを白状したわね」
などと言って女房たちが笑うの。
忠隆が聞きつけて、台盤所の方からやってきます。
「翁まろが戻ってきたというのは本当ですか?本当かどうか見たく存じます」
「まぁいやだ。決してそんな犬はいませんわ」
また翁まろを打つに違いないと思って、そう言いやらせると
「お隠しになっても、見かけることもあるかもしれません。そうそう隠し通せるものでもないでしょうよ」
忠隆もしつこく食い下がってきます。

 さて、その後、翁まろはお咎めを赦されて以前のようにすごしております。
やはり人から可哀想に思われて、震えながら鳴いて姿を見せた時の事は、比べものがないほど興味深くまた感動させられる出来事でしたよ。人間などは人から言葉をかけられて泣くこともありますが、まさか犬が…ねぇ…… 

 ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年4月19日 (日)

『枕草子』百三十一段

五月ばかり、月もなういと暗きに


 五月ごろの月もなくとても暗い夜、男の方々が
「どなたか女房は詰めておいでですか?」
などと騒いでいるので、中宮さまが気に止めなさり
「出てみなさい、いつになく言い立てているのは誰なのです?」
そう仰せになるので、私は部屋の端まで出ました。
「一体誰ですか?ずいぶん騒々しく大声をお出しになる方は」
男の方は何も言わずに、御簾を持ち上げて、下からゴソゴソっと何かを差し入れてくの。
呉竹なんだわ。
思わず
「あら、『この君』だったのね」
そう口にすると、男の方たちは
「さぁさぁ、まずはこの事について殿上に戻って語り合おう」
などと言いながら、式部卿宮さまの御子息の源中将頼定さまや六位蔵人など、
そこにいた人たちは向こうへ行ってしまいました。
頭弁の行成さまはこの場にお残りになって
「なんだか連中、妙な具合で帰ってしまったみたいだな。あのね、実は清涼殿の御前の竹を折って歌でも詠もうとしていたのだけれど、どうせなら職の御曹司へ参って、中宮さまの女房たちを呼び出して詠まないか?ってことになって持って来たんだよ。なのに貴女に呉竹の名をいとも簡単に言われて退散しちゃったのは、ちょっと気の毒だね。貴女は一体誰の教えを受けて普通の人は知っていそうもない事を、そうもあっさり言うのかな?」
「竹の名だなんて知りませんでしたのに、失礼な女だとでも、皆様お思いになったのでしょう」
「…そうだね、貴女は知らないよね」

 事務的な用件なんかも一緒に座り込んで話し合っていますと、
「栽ゑてこの君と称す~♪」
と殿上人たちが藤原篤茂の詩を吟誦しながら、また集まってきました。
行成さまが
「殿上の間で皆で話し合って決めた目的も果たさずに、どうしてお帰りになってしまったのかと不思議に思っておりましたよ」
と言いますと、頼定さまは
「ああ言われては、どんな返事をしたらいいというのか?下手な対応ではかえってブザマだよ。殿上でもこの事でもちきりなんだ。主上もお聞きになって面白がっておいででした」
そう話して下さいます。
行成さまも一緒に藤原篤茂の詩を何度も何度も吟誦なさって実に風流な雰囲気でしたので、他の女房たちもそれぞれ端近に出てきて殿上人たちと夜通し語り合っています。
帰るときになっても、殿上人たちはまた同じ詩を声を合わせて吟誦して、
左衛門の陣に入ってしまうまでその声が聞こえたのよ。

 翌朝とても早い時間、
少納言の命婦という主上付きの女房が主上の御手紙を中宮さまに差し上げたときに、
昨日のことを中宮さまに申し上げたらしいの。
中宮さまは、局に下がっていた私をお召しになります。
「そんな事があったの?」
「存じません。何の事だか知らずにおりましたのを、行成の朝臣がうまくおっしゃったのではないでしょうか?」
「うまく言う、とはいっても…ねぇ」
中宮さまはそうおっしゃると、にっこりと微笑みなさいました。



 中宮さまは、お仕えする女房の誰の事であっても、
殿上人が褒めていましたよ、といった事をお聞きになると、
そう評判される女房のことを自分のことのようにお喜びなさるの。
本当に素晴らしい事ですわ。


  ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年4月11日 (土)

『枕草子』百三十段

頭弁の職にまゐりたまひて

  頭弁藤原行成さまが職の御曹司へ参られたのでお話などをしていたら、
夜がすっかり更けてしまいましたわ。
「明日、主上の御物忌だから殿上に詰めなくてはいけないんだ。丑の刻を過ぎると日が変わって具合が悪いだろうから…」
行成さまはそう言うと参内なさってしまったの。

 翌朝、行成さまは蔵人所で使っている紙屋紙を重ねて手紙を贈ってきました。

.

   今日は心残りに思うことがたくさんあるような気がする。
   夜通しで、昔の事なども話したりして夜を明かそうと思っていたのに、
   鶏の声に急き立てられてさ

,

 などなどと、たくさんの事が書かれているその手紙の字の素晴らしさったら…
お返事に、
「夜遅くに鳴いたという鶏の声って、孟嘗君のアレでしょうか?」
って差し上げたら、折り返し
「孟嘗君の鶏は函谷関の門を開き、三千の食客がなんとか逃げおおせたって何かの本にあったけれど、僕が言っているのは逢坂の関のことだよ」
そんなご返事が返ってきたの。

,

   夜をこめて鶏のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ

     しっかりした関守がいますからね。

,

こう書いて、差し上げたのよ。
そうしたら、またまた折り返し、

,

   逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか

,

そう書かれた手紙が返ってきました。
最初に来た手紙は、僧都の君が土下座までして持っていってしまったの。
二通目の手紙は中宮さまのところに。
ところで、「逢坂は……」の歌のほうは行成さまのあまりの詠みっぷりに呆気にとられちゃって返歌せずじまいになってしまったのよ。
ホント酷いわ。

,

「貴女のあの手紙はね、殿上人たちもみんな見てしまったのだよ」
行成さまがいらっしゃって、そうおっしゃるので
「行成さまって本当に私のことを思って下さるのね。今の一言でわかりましたわ。せっかくの出来のいい和歌も人々の間に広まらないのってつまらないですもの。でも逆にみっともない和歌が人目につくのって嫌なことですから、行成さまのあの和歌は一生懸命隠して絶対に人に見せたりしませんわ。こういう私と行成さまの心配りのほどをくらべたら、勝るとも劣らないでしょ?」
「ホント、貴女ってそんなふうに事の真意を見透かして言ったりする点なんて、さすがその辺の人たちとは違うよね。何も考えず見せびらかしたりして最低と、その辺の女性のように文句言われちゃうのかなって心配していたんだよ」
などとおっしゃって、行成さまは笑いなさる。
「まさかとんでもない。私はお礼をこそ申し上げたいくらいですのに」
「僕の手紙を隠してくれたってのは本当にとても嬉しいよ。もしあの歌が人目に触れでもしたら、どんなに恥ずかしく辛いことになっただろう。今後も貴女のその分別の良さを頼みにしてるからね」

,

 その後、経房の中将さまがおいでになって、
「頭弁が貴女の事をたいそう褒めていたという事を知ってるかい?先日、彼からもらった手紙に書いてあったのだよ。私が想っている人が誰かに褒められるのって本当に嬉しいね」
などと、生真面目な様子で言うんですもの、面白いわ。
「嬉しいことが二つ重なりましたわ。行成さまが私のことを褒めて下さった事もそうですし、さらに経房さまの想い人の中に私が入っていたんですもの」
「そんなことを珍しく今はじめて知ったみたいにして喜ぶんだね」
そう経房さまはおっしゃいました。

,

 ~~~~~~〈解説〉~~~~~~

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2009年4月 9日 (木)

『枕草子』百二十七段

二月、宮の司に

 二月、太政官の役所で定考とかいう事をするのだそうです。一体どんなことなのかしら?孔子の絵などを掛けたりするらしいのだけど。
聡明とかいって、主上や中宮さまにも、なんだか気持ちの悪いものを土器に盛りつけて差し上げるんです。

,

 頭弁藤原行成さまのもとから、主殿寮の役人が、絵巻物のようなものを白い紙に包んで、さらに見事に咲いている梅の花を添えて持って来たのよ。
絵なのかしら?と思って、急いで手にとって開けてみると、餅餤(へいだん)という餅菓子のようなものが二つ並べて包んであるのです。
添えてあった手紙は公式文書のようになっています。

,

   進上           (しんじょう)
   餅餤一包        (へいだんひとつつみ)
   仍例進上如件     (れいによってしんじょうくだんのごとし) 
   別当少納言殿      (べっとうしょうなごんどの)

       長保元年二月×日        美麻那成行

       この男は自分自身でこの手紙を持って参ろうと
       思ったのですが、明るい昼間は醜い容貌が恥ずかしい
       からと、参上せずにいるようです。

,

 実に見事な字で書いてあるのよ。
中宮さまのもとに参上して、ご覧に入れると
「本当に立派な筆跡だこと。それにしても、面白いことを書いていますね」
そう行成さまの字をお褒めになると、手紙は手元にお召し上げなさいました。
「こういった場合、返事はどうしたら良いのかしら?この、餅餤を持って来た者には何かねぎらいの物を渡すべきなのかしら?誰か知っている者がいたらいいのに……」
などとブツブツ言っていると、中宮さまが
「惟仲の声がしていたわ。呼んで聞いてごらんなさい?」
そうおっしゃってくださいました。
さっそく私は部屋の端まで出て
「左大弁さまに申し上げます」
人づてに呼ばせると、中宮さまのお召しだと思ったのか、惟仲さまはびしっと威儀を正しておいでになりました。
「ごめんなさい。私が用があってお呼びしたのです。ひょっとして、弁官や少納言などのもとにこういった物を持ってくる使いの者には、何かねぎらいの物を与えたりするのでしょうか?」
「いや、そういうことはしません。ただ受け取って食べるだけです。しかし、どうしてそのよう

な事をお尋ねになるのです?もしや太政官のどなたかから、贈られてきたのですか?」
「まさか……」
別に行成さまの事を言う必要もないので軽く流しておいて、返事は真っ赤な薄様の紙に書きました。

,

   自分で持ってこないしもべは、冷淡な奴ね、と思われてしまいますよ

,

 綺麗な紅梅の枝に結んで届けさせました。
するとすぐに、
「しもべが参りました、しもべが参りましたよ~」
そんな声がしたので、部屋の端に出ていくと、行成さま御自身がおいでになっています。
「ああいった贈り物には、適当に歌でも詠んで返事をなさるなかな?なんて思っていたのに、ビックリしたよ。実に見事に言ってのけたね。女の人で、ちょっとばかり歌に自身のある人なんかは、すぐに歌詠みぶるのにさ。貴女はそんなことしないから付き合いやすいよ。僕なんかに和歌を詠みかける人のほうが、かえって考えなしだろうよ」
「それじゃあ、まるで則光ですわ」

,

 二人で笑い話にして終わったこの事に関して、
「主上の御前に多くの人が伺候していた時にね、行成さまがお話なさったので、『餅餤に冷淡とはうまく返したものだ』と主上がおっしゃっていましたよ」
ってな事を後から人が私に話してくれたんだけど、ちょっと聞き苦しい自慢話かしらね。

 ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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2009年3月27日 (金)

『枕草子』四十七段

職の御曹司の西面の立蔀のもとにて


 職の御曹司の西側にある立蔀のそばで、頭弁藤原行成さまが立ったまま、どなたかとずいぶんと長く話をしていました。
私は気になったので御簾の近くまで出て
「そこにいるのはどなた?」
そう言うと、
「弁がいるのですよ」
と行成さまが答えたの。
「何をそんなに話し込んでいらっしゃるのかしら?お相手の方は、きっと大弁さまがおいでになったら、中弁の貴方なんてほっぽり出してしまうでしょうよ」
って私が言うと、行成さまはとてもお笑いになって、
「誰がそんな事まで貴女に吹き込んだのかなぁ。僕はね彼女に、そんなつれない事はしないでおくれよって言い聞かせていたんだよ」

 行成さまは特に目立ったり評判になるようにとワザと風流ぶった振る舞いをすることはなくありのままにしていらっしゃるのだけれど、他の女房達はそんな行成さまの表面だけを見て『大したことのない人ね』なんて思っているの。
でもね、私は彼の心の奥ゆかしさを知っているから、
「あの方は並々ならぬお方ですわ」
などと中宮さまに申し上げると、中宮さまもその点はきちんとご存じのようです。
行成さまったらいつも、
「『女は自分を愛する者のために化粧をする。男は己を理解する者のために死ぬ』って昔の人も言っただろ?」
といったふうに言って下さるの。
私の事を理解してくれているのよね。
「『遠江の浜柳』のような仲でいよう」
そう二人で約束しているんです。

 最近の若い女房達は平気で欠点などを歯に衣着せずに言うのよね。
行成さまのことも
「行成さまって近寄り難い方だわ。他の方のように和歌などを詠んで場を盛り上げようともなさらないんだから、つまらない人」
などと非難したりするの。
行成さまは、そういう事を耳にしても、やっぱり女房達に話しかけたりするようなことはなくて、
「僕はね、目が縦にくっついていようが、眉毛がゲジゲジだろうが、鼻がまがっていようが、ただ口元に愛敬があって、あごの下や首がすっきりときれいで、声の優しい人が好きになれそうだよ。とは言ってもあまりに酷いブスは嫌だけど…」
だなんていつも言うものだから、尚更あごの細い人や愛敬のあまりないような女房達は行成さまを目の敵にして、中宮さまにまで悪く申し上げたりしています。

 行成さまったら何か中宮さまに用事がある時でも、私が一番始めに彼を取り次いだからってことなのか、わざわざ私を捜し出し、私が局に下がっているときは呼び出したり御自分で局の方までやってきて用件を言うの。
私が実家に帰っていると、手紙を書いてよこしたり、わざわざ私の家にやってきて、
「今すぐ中宮さまのもとへ参上しないって言うのなら、誰か使いの者にでも『行成がこう申しております』って言ってもらうようにしてよ」
などとおっしゃるの。
「別に私じゃなくたって…中宮さまの所には他にも女房が詰めているでしょう?そちらの方に頼んだら?」
そう言って辞退しても、行成さまったら聞き入れてくださらないのよね。
「あのですねぇ、何事もあり合わせのもので用を足し、こだわりすぎず、その場その場に応じてやっていくのが良いって聞いているんですけれど?」
なんて忠告めいた事を言ってみたりするけれど、
「これが僕の性格だからね…性格なんてそうそう改まったりしないしさ」
とか言って開き直っているの。
「じゃぁ、『改むるに憚ることなかれ』って故事は一体何の事を言っているのかしらね?」
私が首をかしげてみせると、行成さまは笑いながら
「ねぇ、それよりも僕と貴女の仲が良いだなんて人に噂されてるじゃないか。まぁ実際こうやって親しく話をしているわけだから、別にもう恥ずかしがる事なんてないだろ?顔をさぁ、見せてくれないかな?」
ちゃっかり話をそらしてしまうんだから。
「でも、私ブスですわよ。以前『ブスは嫌い』っておっしゃってたでしょ?だから、お見せしません」
「…そうか、そんなに酷いなら貴女のことを嫌いになるかもな。だったら見せてくれなくていいよ」
行成さまはそう言うと何かの拍子で私の顔が見えそうになっても、扇や袖で顔を隠したりして、本当に見ようとなさらないの。
行成さまってホント、律儀って言うか真面目って言うか…

   ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 三月も末になればずいぶんと暖かくなってきて冬の直衣じゃ暑いのでしょうね、下襲は着ないで袍だけの姿だったりで殿上人の宿直姿もよく見かける、とある早朝のこと。
その朝は日が昇っても式部のおもとと一緒に小廂の間で寝ていたんだけど、奥の引き戸をお開けになって主上と中宮さまがお出ましになったのよ。
もうビックリしちゃって焦って起きるに起きられずあたふたしている私達を御覧になって、お二人はとってもお笑いになるの。
唐衣をとりあえず汗衫の上に引っ被って夜具の中に埋もれたようになっている私達の側までいらっしゃって、門を出たり入ったりしている者達の様子などを御覧になっています。
殿上人達が主上がこんな所にお出ましになっているって事に全く気付かず、私達の側まで来てあれこれ言うのを主上は面白がって、
「私達がここにいるということを悟らせないようにね」
などとおっしゃって笑っておられます。
そして、お立ちあそばされる時、
「さぁ、二人ともこちらへおいで」
主上はそうおっしゃって下さるけれど、
「きちんと化粧をして身なりを整えましてから…」
そう申し上げて、私達はその場にとどまりました。

 お二人が奥へ入ってしまわれた後、式部のおもとと、お二人の素晴らしい様子なんかを話して盛り上がっていたのだけど、南の引き戸の側の几帳が御簾を少し押し開けているのに気が付いたの。
そこに黒い人影のようなものが見えたのです。
きっと則隆が控えているのね、と思って気にも止めずにいたのよ。
式部のおもとと話を弾ませていると、たいそうご機嫌な笑顔がひょっこり御簾内に差し込まれたの。
「もう、則隆なんでしょ?」
そう言いながらそっちの方を見ると予想外の顔。
きゃぁきゃぁ大騒ぎをして几帳を引っ張って隠れるには隠れたけれど、なんとそこには行成さまが座っていたのよ。絶対に顔を見られないようにしようって思っていたのにくやしいわ。
一緒にいた式部のおもとは私の方を向いていて行成さまには背を向けていたから、顔は見られていません。
行成さまは立ち上がって御簾の中に入ってきます。
「もう、ばっちり!あますところなく見ちゃったからね」
「則隆だろうって思っていたので油断してしまいましたわ。でも、見たくないって言ってたじゃないですか。そんなにじっくり見ないで下さい」
「女の人の寝起きの顔はそうそう見られないって言うじゃない?ある人の局に行って覗き見して来たのだけれど、もう一人ぐらい見られないかなぁって。主上がいらっしゃった時からここにいたんだよ。、その様子だと全く気が付いていなかったみたいだね」
 その日から行成さまは私の所に来た時は、御簾越しではなく局の中に入ってくるようになったのでした。

   ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

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古典にみる藤原行成

旧サイト発掘記念(?)に
『古典にみる藤原行成』で紹介していた妄想炸裂の拙訳を再掲します。
本当は再度サイトとしてUPできればいいんですが、
そこまで時間が無いのとメンドクサイ(・◇・)

で、読むにあたっての諸注意デスw

藤原行成が登場している古典作品を
私の独断と偏見と思い込みと直感で訳しております。
意訳満載、文法無視もざら。
学術的見解から訳をしておりませんので、
その点ご了承下さい。
間違っても
無断転用・無断転載・勉学の参考・古文の宿題の訳には
使用しないで下さい。
(直接参考文献の方に当たって下さいませ)

再掲にあたっては、
読み返してあきらかに日本語おかしいよね^^;って所は修正しましたが、
それ以外は当時UPしたままです。
原文が手元に無いので、
拙訳のニュアンスだけで修正して本来の意味を損なってはいけないなと思ったので…
(まぁ元々の訳自体が間違ってたらどうにもなりませんが)

あ、いちおう藤原行成について簡単に説明しておきますね。

藤原行成 
ふじわらのゆきなり(972~1027)

父は一条摂政藤原伊尹の子義孝。
母は醍醐源氏中納言源保光の女。
幼名不明(残念)
生まれてすぐ伊尹の養子となるも、伊尹はその年の11月にあっさり昇天。
父の義孝も行成が三歳の時に流行病にて没。
以後は母と外祖父保光に養育される。
若い頃はかなり官途に不遇で、出家を考えたこともあるとか。
源俊賢が蔵人頭の後任に推挙してくれたことにより運が開け出世してゆく。
最終官位は、正二位按察使権大納言。
書の和様を大成した人として超有名。
平安の三蹟の一人としてその名を耳にしたことのある人も多いと思う。

旧サイトの人物紹介まんま引っ張ってきたんだけど、
メインなのに他の人物紹介に比べてあっさりしてて吹いたw
まぁ、その分サイト内で存分に語ってたけどね。

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2005年8月15日 (月)

行成の夢

行成の見た私的に面白いと思った夢を紹介。
出典はもちろん『権記』
意味が非常に取りにくかったのでかなり強引にやらかしてます。
たぶん間違ってます(って毎度の事ですね^^;)


寛弘二年(1005) 九月二十九日甲戌

夜、夢を見た。
東の対屋の東廂のような所に人々がいる時に、東の方を見やると、
南北に細く雲がたなびき、その雲の上に火があるのだ。
その火は北から南へと行きあってさらに南へと向かった。
雲の中に人がいて、人を捕らえて行くのだ。
人々がこれを見て騒いで言うには、
「この連れていこうとする人は、検非違使別当斉信殿を捕らえようと思っているのだ、今また左大弁行成殿も連れて行くだろう。」
別の人が、
「行成殿を連れて行ってはならならない。」
などと言っている。
「その替わりに近江守を連れて行くだろう。」
などと言っているので、
「まったく過失もないのに、どうして私を捕らえていこうとするのか」
私はそう言って、手を洗い浄め、装束を布袴に改めて、
本尊の不動明王の御前に詣でていると、
杖刀を持った者が現れて私の腰をぎゅっと抱えて連れ去ろうとする。
コイツはあの声の召使いで「私をさらいに来たのだな!」と思い、
「先に我が本尊に申し上げてから好きにするがよい。本尊の許しなくして、私を連れて行かれようか」
と言って、本尊の前にひれ伏し頭を地につけて拝んだ。
その間も、この人は私の腰にしがみついている。
次に五大尊を念じ、ひれ伏し拝むこと四・五遍。
次に薬師如来、次に地蔵菩薩、次に普賢菩薩、次に阿弥陀如来…
「南無四十八願弥陀善逝」と奉唱して一拝すると、腰にしがみついている人の手がしだいに手ゆるみ、二拝する間に阿弥陀仏を称えると私を連れて行くことを許しなさらず、この人はやっと離れてくれた。
この間、不覚にも涙が出たよ。
すぐに私はコイツを足でもって踏みつけて、十拝ほどしたのち、また観音菩薩を念じた。
夢の中で「やはり十斎仏・五大尊・六観音におつかえすべきである、特に阿弥陀如来
には大いにおつかえするべきであるよ…」と、そして「実に尊いことだ」と思った。
そうこうするうちに目が覚めた。

この夢を見た時、行成は34歳で正三位参議左大弁。
私も行成の腰にしがみついて彼に足蹴にされたいデス(爆)




追記(09/05/31)

『平安時代の夢分析』にこの日の訳が載っていたので参考にしつつ大幅修正。
やっぱり派手に間違えてたよ…○| ̄|_
んで、たぶんまだあえて間違えてるw
しかし…検非違使別当が斉信さんのことだったとは。。
まぁ、とりあえず行成の腰にしがみついて足蹴にされるっていう話の大筋は間違ってなかったので良しとしよう(´∀`)

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行成の妻と梁鴻の妻・孟光(3)

『唐物語』も『十訓抄』も『蒙求和歌』も『言泉集』も行成が死んだ後に書かれてます。
ということは嫁さんを「孟光」と称した元ネタは『蒙求』ということになりますか。
ところで、行成は『蒙求』読んでたのかよ?という問題がありますが、その点はバッチリです。
『権記』の中に他にも『蒙求』出典っぽい言葉を書いてるから。
それに、『蒙求』だけじゃなく『後漢書』にもほぼ同ネタで「孟光」でてるし、『後漢書』は確実に読んでたらしいので、とりあえず「孟光」の故事は知っていたと。

で、こっからが問題。
ダーリンは何を思ってハニーのことを「孟光」と称したか。

「実は行成の嫁さんはブ○でした」という結論は個人的に却下です。
むしろフツーに「賢妻でした」で済ませておきたい。
そんな私は源泰清女(姉君)が好き。むしろ「平安時代の女性で一番好きな人は?」
アンケートがあったら、定子・彰子・清少納言・紫式部押しのけて一票投じたいくらい大好きです。
って、私が行成の嫁さんを好きかどうかはどうでもいいんです。
行成が嫁さんを愛しているかどうかが重要なのです。
ちなみに行成は泰清女(姉君)愛しまくりです。七人子供作ってます。マメです。
泰清女(姉君)の臨終時は行成大号泣です。翌日、日記書きながらまた泣いてそうだし。
没後の法要だって無茶苦茶マメマメしく催してます。
ん……なんか脱線してるような。
つまり孟光こと泰清女(姉君)は「賢くて気が利いて一途で理想的な行成最愛の妻」ってことなのです。ハイ。

(ここまで引っ張っておいてオチもヒネリも無しか~)

と、ここまでメモ帳に書いて『権記』で行成が嫁さんのことを「孟光」と称している箇所を改めて確認しました(それを先にやれよ)
したらば、泰清女(姉君)没後も「孟光」が登場……(汗)
ということは、姉君に没後に行成の嫁さんになったと思われる妹君も「賢くて気が(以下略)」ってことですね(そういう事にしておいて下さい)
まぁ、あとは賢妻の事を「孟光」って言うのが当時流行だったとか?(爆)
他の文献で妻のことを「孟光」と称しているようなのがあったら是非教えて下さい。

最後に、行成妻が「孟光」と称されている箇所をUPっておきます。

長徳四年七月十六日
……(派手に省略)……加以僧都験徳甚明之由、孟光與惟弘感悟無極、(行成病気により瀕死(というかほとんど逝きかけ)状態だったのを観修僧都に戒を授けられてなんとか復活し、それに感激する嫁さん(姉君)と惟弘(行成腹心の家人つか乳兄弟?))

長保三年二月二十九日
………(世尊寺供養中、その詳細)……諷誦本家三百端、孟光百端、西方百端、……(世尊寺オープンの諷誦料。本家は行成のこと、孟光は嫁さん(姉君))

長保四年十月十日
自渡殿移寝殿、自此夜孟光煩赤痢
(嫁さん(姉君)赤痢を患う。この六日後の十六日、嫁さんは亡くなります)

寛弘七年三月十一日
詣石山、……(省略)……、自及孟光・実経・宮犬・第三娘・幼女兒等料、……
(ここの嫁さんは泰清女・妹君)

他にもあるかもしれませんが、とりあえず。

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行成の妻と梁鴻の妻・孟光(2)

とりあえず、「孟光」なる女性がいかなる人物なのか把握するために真面目(?)
に『蒙求』と『唐物語』の意訳を紹介。

まずは『蒙求』の「孟光荊釵」

 後漢の梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人です。
同県の孟家に娘がいました。肥満で醜くて色黒、力は石臼を持ち上げるほど。
彼女は選り好みをして、三十歳にまでなっていました。
父母が彼女に結婚の条件を聞いてみると、彼女は
「梁伯鸞さんみたいな賢い人と結婚したいです」
と答えました。
梁鴻はその話を聞いて、彼女を迎えました。
結婚するにおよんで、彼女は初めて着飾って嫁ぎました。
しかし、梁鴻は七日経っても彼女を相手にしなかったのです。
彼女は何か不調法でもしでかしたかと思い謝罪すると、梁鴻は言いました。
「私は、皮衣毛衣といった粗末な着物を着て、共に深山に隠れ住むような人を妻にと望んでいた。今、貴女は綺羅の如き衣を着、化粧をしている。私が結婚したいと思った貴女ではない」
その言葉を聞いて彼女は、
「わたくしも、侘び住まい用の服を用意しておりました」
そう言うと、すぐに服装を改め髪を結いなおし布衣を着て、自らすすんで働きました。
梁鴻はとても喜んで、
「それでこそ本当に私の妻だ」
と言い、そして字を徳曜とつけました。
彼女の姓名は「孟光」です。
共に霸陵山中に隠れ住みました。

次に『唐物語』の「孟光、夫の梁鴻によく仕ふる語」

 むかし、梁鴻という人が、孟光と結婚して長年暮らしておりました。
この孟光という女性、世に比類無く醜くて、彼女を見る人は驚き惑って大騒ぎをするほどなのですが、彼女は夫をこの上なく大切な人と思って、仕え敬うことは他人の想像をはるかに越えるほどでした。
朝夕の食事には自ら杓子を取って御飯を盛りつけ、眉の上に捧げ持って鄭重に夫に献じるその様は「斉眉の礼」と言って今に伝えられています。

  さもあらばあれたまのすがたもなにならず ふたごころなきいもがためには

(そんなふうならば、それでいい。美しい姿など何ほどでもない。一途に私を想ってくれる貴女なのだから)

情愛さえ深ければ、玉のような姿・花の如き容貌でなくても本当に残念がるという事はないであろうよ。(とは言っても、醜くない顔に見変えるというのは難しいが)

『唐物語』最後のツッコミはヒドイ…(写本によってあったり無かったりらしいですが)

私がコピってきた『蒙求』には「斉眉の礼」にあたる部分がありませんでしたが、別系の本にはあるようです。
まとめると孟光は、容貌はイマイチだが無駄なお洒落に走ることなく山奥暮らしも平気で、旦那さんを敬い仕えることこの上ない(ちょっと行き過ぎなくらい?)夫的に非常に理想的な妻ってことでしょうか。
『十訓抄』にも「孟光」話があるようですが、そっちでは「外見よりも心を取っとけ」ってな感じで孟光を例に挙げ、超絶美人でも夫を軽んじ浮気心があればかえってあだとなって良くない…といったふうに書かれてます。
『十訓抄』にでてくるし『唐物語』で取り上げられてるし、よく知らないけど『蒙求和歌』『言泉集』とかいう本にも紹介されているらしいです。
実は「孟光」って当時の日本では結構有名な中国女性だったのか…

まだまだ終わらない……、続きはまた明日。

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行成の妻と梁鴻の妻・孟光(1)

昨日図書館へ行って行成集作成計画の為に行成の和歌についての注釈を探せるだけ探してきた際に(やると宣言した時点で資料そろえていなかったあたり、見切り発車も甚だしすぎ)講談社学術文庫の新刊『唐物語』が入ってるのが目に付きました。
『唐物語』というのは平安末期に書かれた上流女性向け中国説話集といったところ。
流麗な和文で書かれてます。
ほら一応女の人は漢籍読まない建前になっているから。
成立は12世紀半ばぐらいだったかな(解説読んだけど忘れました^^;)
それを手にとって、ペラペラとページをめくっていると「孟光」の二文字が!

たぶん「孟光」ってナンですか?って感じの方が多いと思います。
ちなみに私はなんなのか全く知りませんでした。
『権記』の中で行成が妻(源泰清女・姉君)の事をたまに「孟光」って書くので、なんだろな?と思っていた程度です。
嫁さんの名前にしてはなんかフツーと違うし(女の人は○子ってのが流行じゃないですか、この頃って)仮に名前だとしても妙に猛々しい名前だなと(←「孟」と「猛」が混乱しています)
とある本に、行成が嫁さんのことを「孟光」と書くのは『後漢書』に出てくる梁鴻の妻「孟光」になぞらえているか…という記述があり、どうやらその「孟光」さんは賢妻とのこと。
もしかしらた行成の嫁さんの人柄の手掛かりになるかも~vと早速『後漢書』を確認しにいったのですが、白文もしくはレ点が付いている程度の本しか発見できず、それコピって終了。
読むのがめんどいとの理由で放置して今に至ると…(ダメじゃん)

『唐物語』には「孟光、夫の梁鴻によく仕ふる語」という題で載っていました。
タイトルからして良き妻っぽそうです。
元ネタは『蒙求』の「孟光荊釵」でコチラは幸い注釈付きの本がありました。
で、読んでみると『唐物語』には「比類ないほど醜くて、彼女を見た人はビックリしてその事を人に語らずにはいられないほど」とあり『蒙求』には「肥満で醜くて色黒で石臼持ち上げちゃうくらい怪力で選り好みして30歳になっちゃいました」とあって、もの凄い勢いで行成の嫁さんの容貌が心配になってしまったという…(滝汗)

長くなるので続きは明日(ここで中断するのかよ…)

注:この記事を書いたのは数年前です。昨日と言っても平成17年8月14日の事ではありません。

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行成の和歌(7)

   梨の花に時過ぎたる実のつきたるに、右大弁

  春ふかみ深山がくれの花なしと いふにつけてもわきぞかねつる

   返し

  常ならぬ身をぞ恨むるならぬより 花なしといふ世にこそありけれ

   又かくてはとて

  ありといふ程だにあるをかつ見つつ 花なしといふ春をこそ思へ

訳(行成の和歌):春が深まり「深山隠れの花なし」とおっしゃるにつけても、
         その真意をはかりかねてしまいます。
        (ほら、この枝のように花も実もある貴方なのに
         いつまで引き籠もっているおつもりですか?)

訳(公任の返歌1):人並み以下の我が身が恨めしい。
          大成する前から華ナシと決めつける世間だったのだね。

訳(公任の返歌2):梨の実のことを「有りの実」という時もあるのだと思う一方で、
          この枝を見ながら花なしと嘆く春を思うのです。

『公任集』より、斉信に位階越された為いじけて長期引き籠もり中の公任に贈った行
成の和歌と公任の返歌。
この歌の詠まれた背景について、公任サイドの事は詳しくない(というか資料の持ち
合わせがない…)ので行成サイドから見てみたいと思います。
寛弘元年(1004)10月21日に正三位権中納言だった斉信は、同日行われた一
条天皇の北野松尾平野行幸に従い還御後御苦労さんの賞で従二位に叙されます。
この時、正三位中納言として斉信の上席にいた公任(と時光)の位を越えてしまうん
ですね。
それが相当悔しかったらしく、公任は一年近く出仕拒否をします。
『公卿補任』寛弘二年の公任のトコロには「去年十一月以後出仕セズ」って書いてあ
るし…
小野宮さんの日記や御堂さんの日記はどうだか知りませんが、行成の日記『権記』に
は寛弘元年11月23日の賀茂臨時祭に出席しなかった人リストに名を連ねて以降、
翌年の7月21日まで公任は登場しません。
で、その寛弘二年7月21日、具平親王邸に詣でた行成はそこで「公任が今日辞表を
提出したよ…」と伝えられます。
結局その辞表は返され公任は一階加えられて従二位となります。
良かったね~と言いたいところですが、斉信には追い越されたまんま。
結局最後まで斉信より下位に甘んじることとなります。
この二人、歳が近いからね…(公任は斉信の一つ年上)、お互い相当ライバル心燃や
してそうでコワイです。
公任出仕再開後に斉信と顔会わせた際どんな空気が流れたのか…想像するだに背筋が
凍る。

さてココからは恒例の電波(訳の時点ですでに電波ゆんゆんでしたが^^;)
行成の和歌は、先に道長と公任との間で交わされた贈答の公任の返歌を踏まえている
という説があり、私の電波もそれに拠ってます。
その道長と公任の贈答歌を『公任集』から

   世すさましうてこもりゐるころ、大殿(道長)より、春(寛弘二年の春)の事
なり

  谷の戸をとぢや果てつる鶯の まつに声せで春も過ぎぬる
(谷の戸を閉ざしてしまったのか。鶯の声を聞くのを聞くのを待っていたのに音沙汰
無く春が過ぎてしまったよ)

   御返し

  行きかへる春をもしらず花さかぬ深山がくれの鶯のこゑ
(春がめぐってきていたことも知らず、花も咲かない深山の陰で啼く鶯なのです)

おそらく道長邸に行った際にでも、道長から公任の和歌を見せてもらったのでしょ
う。
行成はベコベコに凹んだ公任を励ますべく一計を案じます。
梨の花に季節外れの実がなった枝(おそらく造花(実が作り物?))に歌を添えて贈
りました。
和歌の意味が非常に取りにくくパーな頭をかなり悩ませましたが、結局行成が言いた
かったことは拙訳の( )の中の事なのではないかと。
歌を結びつけた「ナシの花にアリの実の枝」は秀句(洒落)好きな行成ならではのセ
ンスなんでしょうね。
その歌を受け取った公任は……鬱入ってる人間というモノはなんでもマイナス方向に
とらえてしまうのか、もの凄い勢いでいじけてます(^^;)
さすがにこれではいけないと思ったようで、もう一首詠んでますケド。

余談ですが、梨の花について清少納言は『枕草子』でこんなふうに書いています。

 梨の花。酷くつまらない花だということで、身近に鑑賞したりしないし、ちょっと
した文を結びつけるのに使ったりすることさえもない。
ブ…魅力の乏しい女性の顔などを見て喩えに使うのも仕方ないわね。葉の色からして
イケてないのだけれど、唐の国ではこの上もなく素晴らしい花として詩にしている。
やはりそうはいっても、唐でもてはやされるのは理由があるからに違いないと、よく
よく見たら花びらのはしに洒落た色がね、ほんのりとついているの。
楊貴妃が帝の使者に会って泣いた顔を『梨花一枝、春雨を帯びたり(『長恨歌』)』
などと表現したのは、いいかげんなことではないのでしょうと思うにつけても、やっ
ぱり梨の花の大変な魅力というのは彼の国の人にとっては比類なきものなのねと思っ
たわ。(三十四段「木の花は」)

清少納言は梨の花に好意的ですが、平安貴族の梨の花に対する一般的な評価というの
は相当悪かったようですね。

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行成の和歌(6)

   女の思ひに侍りける頃、石山に詣でて、詠み侍りける
                        権大納言行成

  都にて待つべき人も思ほえず 山よりふかく入りやしなまし

訳:都で待っていてくれる人もいるとは思えない。
  いっそ出家してこの石山よりも奥深く入ってしまおうか。

深い仲にあった女性が亡くなり喪に服していた頃、石山寺に詣でて詠んだ歌。
その女性とは…最愛の妻・源泰清女(姉君)だと思われます。
確定はされていないようなのですが。
でも彼女以外に行成をここまで嘆かせる女性が他にいるとは思えません。
以前「孟光」ネタでもちょっと触れましたけど、源泰清女(姉君)が亡くなったのは
長保四年(1002)十月十六日です。奥さん没後に石山寺へ詣でているかと『権
記』をチェックしてみたら、十二月五日に石山寺に詣で八日に帰京したとあります。
なので、この和歌が詠まれたのはその時でしょう。
ちなみに前日の十二月四日に行成は、泰清女(姉君)の七七忌(四十九日)の法事を
しています。
この歌は『続古今和歌集 哀傷歌』に採られた勅撰歌です。

行成さまの詠んだ歌の中で最も好きな和歌の一つです。
円融院葬送の際に詠んだ「遅れじと~」の歌もですが、彼って変に技巧に走った和歌
よりも心情をそのままに吐露した和歌の方が個人的に好きですね。
なんにせよ、行成さまにここまで言わしめる泰清女(姉君)
…女冥利に尽きるというか、マジで羨ましいです

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行成の和歌(5)

    皇后宮うせさせたまひし頃、成房少将につかはしける
                          右大弁行成     

  世の中をいかにせましと思ひつつ 起き臥す程に明け暮らすかな

    返し
                           少将成房

  世の中をはかなきものと知りながら いかにせましと何かなげかん

訳(行成):この世をどうしようと思いながら 
      寝起きするうちに無駄に日月が過ぎてゆくのだな…

訳(成房):この世をはかないものと知っていながら 
      どうしようかなどと何故嘆くのでしょうか

長保二年(1000)12月19日の『権記』にある和歌。
贈答相手は行成の従兄弟の藤原成房くん(19歳)
まずは得意の口誤訳で『権記』のこの箇所を見てみましょう。

早朝、苔雄丸を遣わして、成房少将の許に手紙を送った。
その内容は…
「  世の中をいかにせましと思いつつ 起き臥すほどにあけくらすかな
   (この世をどうしようと思いながら 寝起きするうちに無駄に日月が過ぎてゆ
    くのだな…)
しかるに世間は無常の頃。視るにつけ聴くにつけ、ただ悲しみの気持ちが湧き起こっ
てくる。心中のしのびがたい思いをぬきとって心に隔てない貴方に示すのだ」
参内の後、陣の座の脇で成房からの返事を見るとそれには、
「  世の中をはかなきものと知りながら いかにせましと何かなげかん
   (この世をはかないものと知っていながら どうしようかなどと何故嘆くので
    しょうか)」
そう書かれてあった。

この和歌の贈答がされた前日、行成は成房と同車して世の無常について語り合ってい
ます。
そして、その二日前の16日には一条天皇皇后・藤原定子が女児(〔女美〕子内親
王)を出産し24歳で亡くなっています。
行成の「□則世間無常比、觸視觸聴只催悲感」といった気持ちはモロに定子崩御の影
響を受けていると思われます。
それに対して、妙に突き放したような印象を受ける成房の返歌。
この時、成房は出家する気満々だったからこんな返歌になったのではないかと。
実際この歌をやり取りした日に成房は出家するべく単身飯室に向かいます。
結局、この時は父の義懐や慌てて追いかけてきた行成の説得を受けて断念するのです
けれど。

↓こっから下はどーでもいい電波。

さてさて、この和歌二首、漢文日記である『権記』の中では漢字で書かれてありま
す。
その当て字っぷりがね、結構面白かったりするんです。特に成房の和歌の方。

  世中乎無墓物ト乍知如何為猿と何加歎鑒

こういった風に書いてあるのですが、当然成房から贈られてきた和歌そのものは仮名
でサラリと書かれていたと思うのです。
それを行成が日記に記す際にわざわざ漢字に変換したのでしょうが、ここで注目した
いのは「はかなきもの」に該当する「無墓物」。
「墓無き物」だなんて不穏です。不穏すぎます。
もっとフツーに「果無し・果敢無し・儚し」で良いんじゃないかと思うのにあえて
「墓無し」です。
「だから何?」と言われると何も考えてないのでなんとも言えないのですが(爆)、
「はかなし=墓無し」に変換してしまった行成の思考回路が妙に気になるというお
話。

そんな行成は散骨好きです(好きって言い方も変ですが)
最愛の妻泰清女(姉君)が亡くなった時に散骨してますし、外祖父の源保光&母親の
保光女の遺骸も、後にわざわざ改葬して鴨川に流してるくらいですから。
散骨…墓を作らない葬法ですね。まんま「墓無し」ってわけです。
ま、この頃は墓地そのものはそれほど重視されず、供養はもっぱら故人ゆかりの寺で
行われるので、行成が取り立てて薄情だったってことでは決してないのですけれど。
この行成の散骨思想…当時としてもかなり少数派なのにそれをやる所に彼の信念が感
じられるのですが、調べたら泥沼にはまりそうなくらい奥深いので、今は深入りする
のは止めておきます。

ちなみに上の話は、現存『権記』がオリジナルの『権記』を忠実に一字一句違えず
(少なくとも該当個所が)書写されたという勝手な前提のもとに書いてます。

行成の和歌、だらだら生活している私にとって非常に痛い所を突いてくる図星歌だっ
たりします…

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行成の和歌(4)

     東三条院石山にまうでておはしましけるに秋のつくる日
     人々うきはしといふ所にまかりて帰りがてにして歌よみ
     侍りけるに

                          権大納言行成

  君が世に千たび逢ふべき秋なれど けふのくれをばをしみかねつも   

訳:東三条院さまの世に千度めぐり来る秋ではありますが、
  今日が日暮れてしまうのを惜しんでも惜しみきれません

今回のは注釈書を見付けてきておりませんので、電波垂れ流しなのをあらかじめお詫
しますm(_ _)m

東三条院藤原詮子の石山寺参詣にお供した際に「うきはし(浮橋?)」というところ
で詠んだ歌。
詮子は石山寺がかなりお気に入りのようで、秋に行ったのだけでも長徳二年(99
6)九月下旬・長徳三年八月上旬・長保二年(1000)九月中旬と三回もありま
す。
このうち長保二年は行成は同行していないので却下。
長徳三年は日程的に微妙(ちょうど詮子が石山に行ったと思しき日の記事がないので
すが、その直前後の記事がクソ忙しそうで呑気に石山詣でにくっついて行ってるバヤ
イじゃなさそうなのと、旧暦とはいえ八月上旬ではまだ紅葉とかしてなさそうで、惜
しむほどのものはなさそう…)なので保留。
長徳二年の記事は丸々残っていないので、(『権記』からは)確認は取れませんが、
時期的にも可能性はこっちの方がアリかな?と(ただ、この年だと、伊周隆家の左遷
騒ぎでバタバタしてますけどね…)
とすると、行成25歳・蔵人頭左中弁の時の歌?
もし勘違いも甚だしすぎだったらツッコミ下さい。

『新拾遺和歌集巻七 賀歌』に採られているだけあって、上の句あたりが長寿を言祝
いでおります。
勅撰集に採られてはおりますが、出来の方としてはいかがなんでしょう?
個人的には、ほのかにゴマの香りのするフツーの歌だなと思います(←ナニサマ)

むかし行成の和歌を調べた時のメモに、何故かこの和歌と一緒に藤原公任の「我だに
もかへるみちはものうきを いかで過ぎぬる秋にかあるらむ」という和歌“だけ”が
書きつけてありました。
何を意図してメモったのか自分……
調べてみたら『玉葉和歌集 秋歌』のようで、こちらは円融院が石山寺に詣でたとき
に、同じように「うきはし」で詠んだものらしいのですが、なんでこれを一緒にメ
モったのか、サッパリ思い出せません(爆)

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行成の和歌(3)

   権大納言行成、物語などし侍りけるに、内の御物忌みに籠もれば
   とて、急ぎ帰りて、つとめて、鶏の声にもよほされてと言ひ
   をこせて侍りければ、夜深かりける鶏の声は函谷関の事にやと、
   言ひつかはしたりけるを、たちかへり、これは逢坂の関に侍る、
   とあれば、詠み侍りける

                          清少納言

  夜をこめて鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

    返し
                        権大納言行成

  逢坂はひと越えやすき関なれば 鶏鳴かぬにもあけてまつとか

訳(清少納言)
  夜が明けないのに鶏の鳴き真似でだまそうったって、
  決して逢坂の関守は許しませんよ。

訳(藤原行成)
  逢坂は人が越えやすい関だから、
  鶏が鳴かなくても開けて待っているそうだよ

枕草子の訳はこちら→『枕草子百三十段』
向こうでは和歌の内容について流してますが、
こっちではしっかり書いていておきます(・◇・)

行成が「明日は主上の物忌みだから~」と言い訳して帰っていった翌朝、
彼から後朝ちっくな手紙が清少納言のもとに贈られてきました。
「鶏の声に急き立てられちゃって」なんて書いてあったものだから、
清少納言は孟嘗君の故事を思い浮かべて「夜中に鳴く鶏って孟嘗君のよね?」と返し
ます。
折り返し行成から「孟嘗君のは函谷関だけど、僕のは逢坂の関だよ」とあったのに触
発されて、
清少納言は和歌を詠みます。
「鶏の鳴き真似で函谷関の関守はだませても、男女相逢う逢坂の関守はだまされたり
しないわよ。私はガードが堅いんだから」
この歌、『後拾遺和歌集 雑二』に収録され、さらに『百人一首』に採られたおかげ
で古典に詳しくない人でも一度は耳にしたことがある超有名な和歌となっています。

一方、行成の和歌はというと……
彼の和歌は、むしろ訳いらねーだろ、ってくらいそのまんまです。
裏の意味ですか?
セクハラものですがな。
「何言ってるの、貴女は来る者拒まずのオープン女だろ?」といった所でしょうか
(爆)
フォロー(?)を入れとくと、逢坂の関はこの頃すでに関としての役割は果たしてお
らず出入り自由ではあったそうです。

ごくたまに一般向けの「百人一首」の解説本なんかで、この歌の詠まれた経緯のおか
げかヘタレ男として紹介されて、清少納言にピシャリとやられている行成を見かけて
生暖かい気分になります。
まぁ自業自得…なんでしょうケド(苦笑)

(詞書きは『後拾遺集』の詞書きを参考に、ちょこっといじってます)

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行成の和歌(2)

     円融院法皇うせさせたまひて、紫野に御葬送侍けるに
     一とせこの所にて子の日せさせたまひしことなど思ひ
     出でてよみ侍りける

                          大納言行成

  遅れじとつねのみゆきはいそぎしを 煙にそはぬたびのかなしさ

訳:遅れまいと、いつもの行幸では心急かして同行しておりましたが、このたび死出

  旅路へと立たれるあの煙には御一緒する事ができず、それがなんとも悲しいので

正暦二年(991)2月12日に円融院は崩ぜられ、葬送は19日。
行成20歳の時のことでございます。
この歌は行成の和歌中一二を争うほど有名かつ秀歌なのではないかと。
勅撰集の『後拾遺和歌集 哀傷』の他、『栄花物語』『十訓抄』でも紹介されていま
す。
『栄花物語』の方は既にサイト内で紹介済ですので参考までに→コチラ

ストレート過ぎるほどに悲しみを詠んだ和歌。
どうぞ心ゆくまで行成の和歌に・悲しみに浸ってください。

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行成の和歌(1)

寛和二年内裏歌合に       権大納言行成

  漁り火の浮かべるかげと見えつるは なみのよる知るほたるなりけり

訳:漁り火が浮かんでいる光だと見えたのは、波の寄る夜を知る螢なのだった
※「よる」に、寄せる波の「寄る」と漁り火の縁語「夜」を掛ける。

寛和二年(986)6月10日の内裏歌合で詠んだ歌です。
行成この時なんと15歳!
数えで15歳だから満年齢だと14、下手すりゃ13歳です。
中学二年生だよ、中二!
ちなみにこの時の歌合、斉信・公任・道長も参加していたらしい。
それより何より、この年、この月といったら『花山天皇退位事件』じゃないですか!
兼家の意を受けた道兼に騙されて花山天皇が出家してしまうのはこの月の23日で
す…

さて、通釈を紹介するだけではなんなので電波解釈を
最初注釈書を見ずに適当に解釈しようとしたら「なみのよるしる」という言葉を上手
く訳せずつまずきました。
何に引っ掛かったのかというと「なみ」と「よる」と「しる」です(全部じゃん)
「なみ」が「波」なのはともかくとして「並み」でもあるんじゃないかと思ってしま
い、さらに「よる」は私の脳内では「夜」しかなくトドメの「しる」に「男女の交わ
りをする」の意味があるのを辞書で見てしまった。
さらに「ほたる」は恋に身を焦がすという形で和歌に詠まれることが多い云々…とい
うのを思い出したりして出した結論が、
「漁り火みたいにゆらゆら揺れてる灯りは一体何かと思ったら、世間一般の恋心
(つーか男女の交わり)を知ってしまった萌え燃えの男がうろついているのでした」
というしょーもないシロモノ(爆)
こんな意味の歌を内裏歌合に詠む中学二年生なんてヤダってことで却下です却下。
言い忘れてましたが『続古今和歌集 夏歌』に収録されている勅撰歌です。

こんなザマで、本当に注釈書がない和歌の解釈は一体どうなるのやら……

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