行成さんちの家庭の事情(1)
源泰清女(姉君)976~1002
みなもとのやすきよのむすめ(あねぎみ)
藤原行成の最初の妻。
父親は醍醐源氏の源泰清(泰清の父は有明親王)、母親は魚名流の藤原雅材女。
永祚元年(989)八月十一日に14歳で行成(当時18歳)と結婚する。
通説では実経・良経・大君・中の君の母親。
とても賢妻だったようで、行成は日記に誇らしげに「妻が世間の人に褒められている」と書き残していたりする。
長保四年(1002)十月十四日に赤痢を患いながらも女児を出産。
しかしその二日後にその女児と共に没してしまう。
「非慟の極み、何事かこれに如かん」と日記に記した行成の嘆きはいかばかりであったのだろうか。
都にて待つべき人も思ほへず 山よりふかく入りやしなまし
『続古今和歌集 哀傷歌』に採られた、行成のこの和歌は亡き妻を思って詠まれたものと思われる。(参考:→行成の和歌(6) )
没後も妻への愛は変わらず、行成は毎年命日に法要を欠かさず営んでいたことが『権記』より伺える。
↓↓以下妄想炸裂トーク↓↓
黒板先生も認める行成最愛の妻(人物叢書『藤原行成』)、泰清女(姉君)。
この奥さんの生年はおろか結婚した日までわかるのは、ひとえに行成が妻が亡くなった日の記事に書き記しているからなんですが…十四年前の結婚日を妻没時の混乱の中、さっと思い出して書けるあたり、無茶苦茶記憶力が良いor毎年結婚記念日に二人でささやかに祝ったりしてたのかなと思ってしまいます(いやほらだって何もしてなかったらフツー忘れね?^^;)
そんな泰清女(姉君)の賢妻ぶりについては、昔書きなぐった「→行成の妻と梁鴻の妻・孟光 」で妄想してるので割愛。
で、今回は泰清女(姉君)が生んだ子供たちについて今後の妄想の為にちょっと整理してみたいと思ったわけでございます。
先にも書きましたが、通説では実経・良経・大君・中の君が彼女所生の子供とされていますが、実は実経の前に薬助丸という子がいます。
薬助はその幼名からも伺えるのですが、「酉の時、薬助を河原に持ち出し除服せしむ」(『権記』寛弘七年(1010)六月三十日)という書かれ方からどうも非常に体が弱かった(いわゆる障害児?)ようで、元服の年頃を過ぎても幼名のままであり、社会に出ることなく生涯を終えてしまいます。
さて、その薬助くんを加えて5人が泰清女(姉君)の子なのかな…と思うと一つ問題が発生します。
行成は妻没時の記事に「所生子忽七人、三人已夭(所生の子は七人。すでに三人は夭折している)」と書いています。
えーと、えーと、7ひく3は・・・よん?(´・ω・`)
・・・このことに関しては指摘されている論文等を見たような気がするのですが、結局薬助はノーカンでスルーされてしまっています・・・(´д`)カワイソス
ちょっとココで泰清女(姉君)所生の子供たちの生まれ年を整理。
たぶん間違ってます(・◇・)
( )内の年齢は奥さんの歳、●は夭折した子。
989年8月11日 泰清女(姉君)結婚(14歳・満13歳)
996年以前 薬助丸と●夭折の子
997年 ●男子(翌年死亡) (22歳)
998年12月13日 実経 (23歳)
999年11月上旬 大君? (24歳)
1001年8月1日 良経 (26歳)
1002年10月14日 ●女子 (27歳)
1002年10月16日 先日出産の女子と共に泰清女(姉君)死去
ほぼ毎年出産してますよ…恐ろしい…
そして…中の君が入る余地がないんですが…Σ(゜ー゜;)
と、いうことで、私の中では中の君は後妻の泰清女(妹君)の子という事になりましたヽ(*´∀`)ノ
ちなみに泰清女(姉君)の子が実経・良経・大君・中の君の四人とされる根拠と思しいのが『栄花物語』の「この大姫君、男君達などの御母、この今の北の方の姉にものしたまひしを、女君二人、男君は民部大輔実経、尾張権守良経の君なん。中の君は今は近江守経頼の北の方、大姫君は…」の部分かな。
男子ならともかく女子なんてどっちが母親でもええやんと思われるかもしれませんが、大昔に継子物語かじった身としては捨て置けませんw
行成の娘達のうちで中の君・三の君はちゃんと結婚してるのに、どうして大君は派手に結婚が遅れてしまったのか…
こういうの調べてあれこれ妄想するのが楽しいんですよんъ(`ー゜)
さて、泰清女(姉君)について妄想をしていた際に、大君の生年をあれこれ考えてたら別件で派手に妄想が膨らみまして…ちと脳内お祭状態です\(^O^)/
おかげで昨日は寝るのすっかり忘れて気付いたら外が明るかった罠…今日臨休対応で仕事が休みでよかったぜw
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