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2009年4月30日 (木)

『大鏡』第三 伊尹伝より 

行成ネタその壱 蔵人頭になるの巻


 義孝の少将さまが桃園の源中納言保光卿の姫君と結婚してできた御子がね、今の侍従大納言行成卿、あの天下の能書家と名高い方ですよ。
 行成さまの男のお子様達の中で、今の但馬守実経さまと尾張守良経さまの二人は源泰清の三位さまの姫君(姉君)が産みました。
正妻(妹君)の子は少将行経さまです。
姫君は、藤原道長さまの子で高松殿腹の権中納言長家さまの北の方でしたが、亡くなってしまいましたよね。
あと、姉君腹の中の君は今の丹波守源経頼さまの北の方になっています。
他に長女の大姫さまがいるとか。



 この行成さまこそが、備後介でまだ地下人で昇殿もできぬ身分だったのに、一挙に蔵人頭になった方なのです。
こういった例は非常に珍しいことですよね。

 その当時、源民部卿俊賢さまが蔵人頭でしたが、参議に昇進する予定だったので一条天皇は俊賢さまに
「そなたの後任は誰が適当であろう?」
そうお尋ねになりました。
「行成こそが私の後任にふさわしい者でございましょう」
俊賢さまが申し上げると、主上は少しためらっているご様子。
「行成は地下人だ。地下の者を蔵人頭にするのは……」
「主上、あの者は実に貴重な人物でございます。地下人だからといって気になさる必要はございません。末永く主上の側近く仕えるのに充分力量のある者でございます。あのような優れた人材を登用しないのは世の為にも良くないことです。君主たる御方が物事の道理をわきまえていらっしゃればこそ、人々も心を尽くして主上にお仕え申し上げるのです。この機会に彼の者を蔵人頭になさらないのなら、多大な損失となりましょうぞ」
そう言って俊賢さまが推挙なさいましたので、まぁ当然の結果とはいえ行成さまが蔵人頭になりました。

 なんでも、昔は前任の蔵人頭が後任を推挙して任じていたのだそうですよ。
そこで、殿上人たちのなかで、「自分こそが次の蔵人頭に違いない」と思っていた方が、今宵任命があると聞いて参内してきました。
そして宮中のとある場所で行成さまとばったり顔をあわせたのです。
「そなたは誰だ?」
不審に思いながらその方が尋ねると、行成さまは名前を名乗って言いました。
「蔵人頭に任じていただきましたので、参内したのでございますよ」
その行成さまの言葉に相手の方は茫然自失、そのまま身動きもせず立ち尽くしていたとか。
たしかに思いもよらぬ人事でしたから当然でしょうね。



 行成さまは俊賢さまが自分を推挙してくれたことを良くご存知でした。
行成さまが従二位なった時でしたかね、行成さまの位が俊賢さまを越えたのですよ。
けれど、行成さまは決して俊賢さまの上座に座らなかったのです。
俊賢さまが出仕する日は、ご自分は病欠の届けを出し、どうしても一緒に出仕しなければならない日には向かい合わせの席に座りました。
 その後、俊賢さまが正二位に昇ると以前のように行成さまの身分が俊賢さまよりも下になったので、そのような気遣いがいらなくなりました。



 それにしても、この伊尹さまの一族は蔵人頭をめぐる争いで代々敵をつくってしまうようでしたので、はたして行成さまは何事もなく無事過ごすことができるのでしょうかね。

 ~~~~~~〈以下解説〉~~~~~~

◆義孝の少将(よしたかのしょうしょう)
藤原義孝(954~974)
藤原伊尹男。行成の父。超絶美形。
詳細はいずれ…

◆桃園の源中納言保光卿(ももぞののげんちゅうなごんやすみつきょう)
源保光(924~995)
代明親王(醍醐天皇皇子)の男。母は藤原定方女。
行成の外祖父。幼い頃に祖父伊尹・父義孝を亡くした行成にとって最大の後見人だった。

◆源保光女(みなもとのやすみつのむすめ)
藤原行成母(?~995)
従兄弟の義孝(母が代明親王女の恵子女王)と結婚し行成を生むも、行成3歳の時に夫義孝は21歳で早世。

◆行成の子供たち
諸説あるけれど、大鏡+αでまとめてみると、
源泰清女(姉君)腹が実経・良経・大君・源経頼北の方(中の君)
源泰清女(妹君)腹が行経・藤原長家北の方。

◆行成の妻たち
行成は989年に18歳で源泰清女(14)と結婚。
彼女とは夭折した子も含め七人儲けるが、1002年にお産がもとで死去。
その後は彼女の妹を後妻として迎える(結婚の具体的年月日は不明)
ちなみに妾や召人の存在は不明。
(尊卑分脈をみると二人の妻との間以外にも子がいたようデス)

◆源泰清の三位(みなもとのやすきよのさんみ)
源泰清(936~999)
有明親王(醍醐天皇皇子)の男。母は藤原仲平女。
讃岐守・左京大夫に任じられ、従三位に到るが非参議のまま没する。

◆源経頼(みなもとのつねより)
源経頼(986~1039)
源扶義(雅信男)の男。母は源是輔(雅信孫)の女。
行成女(中の君)の夫。
娘婿として出入りする様子が『権記』や、自身の日記『左経記』に伺える。

◆地下人(ぢげにん)
昇殿を許されていない人←→殿上人。

◆蔵人頭(くろうどのとう)
天皇の首席秘書といったところ。定員二名。
蔵人頭を経て参議になるという出世ルートがあるため殿上人垂涎の職であった。

◆その当時
長徳元年(955)、行成24歳。

◆源民部卿俊賢(げんみんぶきょうとしかた)
源俊賢(960~1027)
源高明三男。母は藤原師輔三女。
藤原斉信・公任・行成と供に、後に寛弘の四納言と呼ばれる。

◆行成が俊賢の位を超えた時。
寛弘四年(1007)正月に正三位参議であった行成が従二位に加階され、権中納言正三位の俊賢含め五名を一気にごぼう抜きにした。翌年十月に俊賢が従二位となるまで位は行成の方が上となる。
このエピソード、斉信に位超えられた公任がいじけて一年間も引き籠もった話とは全く対照的である。





行成は22歳の時に従四位下になると同時に
それまで就いていた左兵衛権佐(五位相当)を解任されてしまいます。
(別に悪いことをしたわけではない。そういう慣例であったらしい)
一応、備後権介ではあったのだけれど、
これは遙授といって実際に任国に行ったわけではないので、
まさに無職同然だったといえます(しかも2年間も)
彼の名誉のために訂正しておきますが、
行成はこの頃地下人ではなく殿上人でした。
それでも2年間も無職同然の行成が蔵人頭に就任するのは
大抜擢に違いなかったのです。

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