行成の和歌(5)
皇后宮うせさせたまひし頃、成房少将につかはしける
右大弁行成
世の中をいかにせましと思ひつつ 起き臥す程に明け暮らすかな
返し
少将成房
世の中をはかなきものと知りながら いかにせましと何かなげかん
訳(行成):この世をどうしようと思いながら
寝起きするうちに無駄に日月が過ぎてゆくのだな…
訳(成房):この世をはかないものと知っていながら
どうしようかなどと何故嘆くのでしょうか
長保二年(1000)12月19日の『権記』にある和歌。
贈答相手は行成の従兄弟の藤原成房くん(19歳)
まずは得意の口誤訳で『権記』のこの箇所を見てみましょう。
早朝、苔雄丸を遣わして、成房少将の許に手紙を送った。
その内容は…
「 世の中をいかにせましと思いつつ 起き臥すほどにあけくらすかな
(この世をどうしようと思いながら 寝起きするうちに無駄に日月が過ぎてゆ
くのだな…)
しかるに世間は無常の頃。視るにつけ聴くにつけ、ただ悲しみの気持ちが湧き起こっ
てくる。心中のしのびがたい思いをぬきとって心に隔てない貴方に示すのだ」
参内の後、陣の座の脇で成房からの返事を見るとそれには、
「 世の中をはかなきものと知りながら いかにせましと何かなげかん
(この世をはかないものと知っていながら どうしようかなどと何故嘆くので
しょうか)」
そう書かれてあった。
この和歌の贈答がされた前日、行成は成房と同車して世の無常について語り合ってい
ます。
そして、その二日前の16日には一条天皇皇后・藤原定子が女児(〔女美〕子内親
王)を出産し24歳で亡くなっています。
行成の「□則世間無常比、觸視觸聴只催悲感」といった気持ちはモロに定子崩御の影
響を受けていると思われます。
それに対して、妙に突き放したような印象を受ける成房の返歌。
この時、成房は出家する気満々だったからこんな返歌になったのではないかと。
実際この歌をやり取りした日に成房は出家するべく単身飯室に向かいます。
結局、この時は父の義懐や慌てて追いかけてきた行成の説得を受けて断念するのです
けれど。
↓こっから下はどーでもいい電波。
さてさて、この和歌二首、漢文日記である『権記』の中では漢字で書かれてありま
す。
その当て字っぷりがね、結構面白かったりするんです。特に成房の和歌の方。
世中乎無墓物ト乍知如何為猿と何加歎鑒
こういった風に書いてあるのですが、当然成房から贈られてきた和歌そのものは仮名
でサラリと書かれていたと思うのです。
それを行成が日記に記す際にわざわざ漢字に変換したのでしょうが、ここで注目した
いのは「はかなきもの」に該当する「無墓物」。
「墓無き物」だなんて不穏です。不穏すぎます。
もっとフツーに「果無し・果敢無し・儚し」で良いんじゃないかと思うのにあえて
「墓無し」です。
「だから何?」と言われると何も考えてないのでなんとも言えないのですが(爆)、
「はかなし=墓無し」に変換してしまった行成の思考回路が妙に気になるというお
話。
そんな行成は散骨好きです(好きって言い方も変ですが)
最愛の妻泰清女(姉君)が亡くなった時に散骨してますし、外祖父の源保光&母親の
保光女の遺骸も、後にわざわざ改葬して鴨川に流してるくらいですから。
散骨…墓を作らない葬法ですね。まんま「墓無し」ってわけです。
ま、この頃は墓地そのものはそれほど重視されず、供養はもっぱら故人ゆかりの寺で
行われるので、行成が取り立てて薄情だったってことでは決してないのですけれど。
この行成の散骨思想…当時としてもかなり少数派なのにそれをやる所に彼の信念が感
じられるのですが、調べたら泥沼にはまりそうなくらい奥深いので、今は深入りする
のは止めておきます。
ちなみに上の話は、現存『権記』がオリジナルの『権記』を忠実に一字一句違えず
(少なくとも該当個所が)書写されたという勝手な前提のもとに書いてます。
行成の和歌、だらだら生活している私にとって非常に痛い所を突いてくる図星歌だっ
たりします…
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