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2005年8月の12件の記事

2005年8月16日 (火)

改めてご挨拶

「ふでの蹟」の管理人しのぶです。

はじめましての方も以前からお世話になっている方も、宜しくお願いいたします。

昔日の如く更新はむりですが、のんびりやっていこうと思ってますので、どうぞ生暖かい目で見守ってください。

以前借りていてとっくに消滅してしまった日記に書いていた行成関連の記事のうち、PCに保存してあったものを再録しました。

行成の和歌・・・う~ん、せめてコレだけは全部紹介したいなぁ。

数もそうないし・・

改めて読むと赤面ものの情けない駄文ですが、特に書き直しはせず(したら全文書き直しになる~^^;)UPしときます。細かいツッコミはナシでお願いいたしますね~(苦笑)

2005年8月15日 (月)

行成の夢

行成の見た私的に面白いと思った夢を紹介。
出典はもちろん『権記』
意味が非常に取りにくかったのでかなり強引にやらかしてます。
たぶん間違ってます(って毎度の事ですね^^;)


寛弘二年(1005) 九月二十九日甲戌

夜、夢を見た。
東の対屋の東廂のような所に人々がいる時に、東の方を見やると、
南北に細く雲がたなびき、その雲の上に火があるのだ。
その火は北から南へと行きあってさらに南へと向かった。
雲の中に人がいて、人を捕らえて行くのだ。
人々がこれを見て騒いで言うには、
「この連れていこうとする人は、検非違使別当斉信殿を捕らえようと思っているのだ、今また左大弁行成殿も連れて行くだろう。」
別の人が、
「行成殿を連れて行ってはならならない。」
などと言っている。
「その替わりに近江守を連れて行くだろう。」
などと言っているので、
「まったく過失もないのに、どうして私を捕らえていこうとするのか」
私はそう言って、手を洗い浄め、装束を布袴に改めて、
本尊の不動明王の御前に詣でていると、
杖刀を持った者が現れて私の腰をぎゅっと抱えて連れ去ろうとする。
コイツはあの声の召使いで「私をさらいに来たのだな!」と思い、
「先に我が本尊に申し上げてから好きにするがよい。本尊の許しなくして、私を連れて行かれようか」
と言って、本尊の前にひれ伏し頭を地につけて拝んだ。
その間も、この人は私の腰にしがみついている。
次に五大尊を念じ、ひれ伏し拝むこと四・五遍。
次に薬師如来、次に地蔵菩薩、次に普賢菩薩、次に阿弥陀如来…
「南無四十八願弥陀善逝」と奉唱して一拝すると、腰にしがみついている人の手がしだいに手ゆるみ、二拝する間に阿弥陀仏を称えると私を連れて行くことを許しなさらず、この人はやっと離れてくれた。
この間、不覚にも涙が出たよ。
すぐに私はコイツを足でもって踏みつけて、十拝ほどしたのち、また観音菩薩を念じた。
夢の中で「やはり十斎仏・五大尊・六観音におつかえすべきである、特に阿弥陀如来
には大いにおつかえするべきであるよ…」と、そして「実に尊いことだ」と思った。
そうこうするうちに目が覚めた。

この夢を見た時、行成は34歳で正三位参議左大弁。
私も行成の腰にしがみついて彼に足蹴にされたいデス(爆)




追記(09/05/31)

『平安時代の夢分析』にこの日の訳が載っていたので参考にしつつ大幅修正。
やっぱり派手に間違えてたよ…○| ̄|_
んで、たぶんまだあえて間違えてるw
しかし…検非違使別当が斉信さんのことだったとは。。
まぁ、とりあえず行成の腰にしがみついて足蹴にされるっていう話の大筋は間違ってなかったので良しとしよう(´∀`)

行成の妻と梁鴻の妻・孟光(3)

『唐物語』も『十訓抄』も『蒙求和歌』も『言泉集』も行成が死んだ後に書かれてます。
ということは嫁さんを「孟光」と称した元ネタは『蒙求』ということになりますか。
ところで、行成は『蒙求』読んでたのかよ?という問題がありますが、その点はバッチリです。
『権記』の中に他にも『蒙求』出典っぽい言葉を書いてるから。
それに、『蒙求』だけじゃなく『後漢書』にもほぼ同ネタで「孟光」でてるし、『後漢書』は確実に読んでたらしいので、とりあえず「孟光」の故事は知っていたと。

で、こっからが問題。
ダーリンは何を思ってハニーのことを「孟光」と称したか。

「実は行成の嫁さんはブ○でした」という結論は個人的に却下です。
むしろフツーに「賢妻でした」で済ませておきたい。
そんな私は源泰清女(姉君)が好き。むしろ「平安時代の女性で一番好きな人は?」
アンケートがあったら、定子・彰子・清少納言・紫式部押しのけて一票投じたいくらい大好きです。
って、私が行成の嫁さんを好きかどうかはどうでもいいんです。
行成が嫁さんを愛しているかどうかが重要なのです。
ちなみに行成は泰清女(姉君)愛しまくりです。七人子供作ってます。マメです。
泰清女(姉君)の臨終時は行成大号泣です。翌日、日記書きながらまた泣いてそうだし。
没後の法要だって無茶苦茶マメマメしく催してます。
ん……なんか脱線してるような。
つまり孟光こと泰清女(姉君)は「賢くて気が利いて一途で理想的な行成最愛の妻」ってことなのです。ハイ。

(ここまで引っ張っておいてオチもヒネリも無しか~)

と、ここまでメモ帳に書いて『権記』で行成が嫁さんのことを「孟光」と称している箇所を改めて確認しました(それを先にやれよ)
したらば、泰清女(姉君)没後も「孟光」が登場……(汗)
ということは、姉君に没後に行成の嫁さんになったと思われる妹君も「賢くて気が(以下略)」ってことですね(そういう事にしておいて下さい)
まぁ、あとは賢妻の事を「孟光」って言うのが当時流行だったとか?(爆)
他の文献で妻のことを「孟光」と称しているようなのがあったら是非教えて下さい。

最後に、行成妻が「孟光」と称されている箇所をUPっておきます。

長徳四年七月十六日
……(派手に省略)……加以僧都験徳甚明之由、孟光與惟弘感悟無極、(行成病気により瀕死(というかほとんど逝きかけ)状態だったのを観修僧都に戒を授けられてなんとか復活し、それに感激する嫁さん(姉君)と惟弘(行成腹心の家人つか乳兄弟?))

長保三年二月二十九日
………(世尊寺供養中、その詳細)……諷誦本家三百端、孟光百端、西方百端、……(世尊寺オープンの諷誦料。本家は行成のこと、孟光は嫁さん(姉君))

長保四年十月十日
自渡殿移寝殿、自此夜孟光煩赤痢
(嫁さん(姉君)赤痢を患う。この六日後の十六日、嫁さんは亡くなります)

寛弘七年三月十一日
詣石山、……(省略)……、自及孟光・実経・宮犬・第三娘・幼女兒等料、……
(ここの嫁さんは泰清女・妹君)

他にもあるかもしれませんが、とりあえず。

行成の妻と梁鴻の妻・孟光(2)

とりあえず、「孟光」なる女性がいかなる人物なのか把握するために真面目(?)
に『蒙求』と『唐物語』の意訳を紹介。

まずは『蒙求』の「孟光荊釵」

 後漢の梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人です。
同県の孟家に娘がいました。肥満で醜くて色黒、力は石臼を持ち上げるほど。
彼女は選り好みをして、三十歳にまでなっていました。
父母が彼女に結婚の条件を聞いてみると、彼女は
「梁伯鸞さんみたいな賢い人と結婚したいです」
と答えました。
梁鴻はその話を聞いて、彼女を迎えました。
結婚するにおよんで、彼女は初めて着飾って嫁ぎました。
しかし、梁鴻は七日経っても彼女を相手にしなかったのです。
彼女は何か不調法でもしでかしたかと思い謝罪すると、梁鴻は言いました。
「私は、皮衣毛衣といった粗末な着物を着て、共に深山に隠れ住むような人を妻にと望んでいた。今、貴女は綺羅の如き衣を着、化粧をしている。私が結婚したいと思った貴女ではない」
その言葉を聞いて彼女は、
「わたくしも、侘び住まい用の服を用意しておりました」
そう言うと、すぐに服装を改め髪を結いなおし布衣を着て、自らすすんで働きました。
梁鴻はとても喜んで、
「それでこそ本当に私の妻だ」
と言い、そして字を徳曜とつけました。
彼女の姓名は「孟光」です。
共に霸陵山中に隠れ住みました。



次に『唐物語』の「孟光、夫の梁鴻によく仕ふる語」

 むかし、梁鴻という人が、孟光と結婚して長年暮らしておりました。
この孟光という女性、世に比類無く醜くて、彼女を見る人は驚き惑って大騒ぎをするほどなのですが、彼女は夫をこの上なく大切な人と思って、仕え敬うことは他人の想像をはるかに越えるほどでした。
朝夕の食事には自ら杓子を取って御飯を盛りつけ、眉の上に捧げ持って鄭重に夫に献じるその様は「斉眉の礼」と言って今に伝えられています。

  さもあらばあれたまのすがたもなにならず ふたごころなきいもがためには

(そんなふうならば、それでいい。美しい姿など何ほどでもない。一途に私を想ってくれる貴女なのだから)

情愛さえ深ければ、玉のような姿・花の如き容貌でなくても本当に残念がるという事はないであろうよ。(とは言っても、醜くない顔に見変えるというのは難しいが)



『唐物語』最後のツッコミはヒドイ…(写本によってあったり無かったりらしいですが)

私がコピってきた『蒙求』には「斉眉の礼」にあたる部分がありませんでしたが、別系の本にはあるようです。
まとめると孟光は、容貌はイマイチだが無駄なお洒落に走ることなく山奥暮らしも平気で、旦那さんを敬い仕えることこの上ない(ちょっと行き過ぎなくらい?)夫的に非常に理想的な妻ってことでしょうか。
『十訓抄』にも「孟光」話があるようですが、そっちでは「外見よりも心を取っとけ」ってな感じで孟光を例に挙げ、超絶美人でも夫を軽んじ浮気心があればかえってあだとなって良くない…といったふうに書かれてます。
『十訓抄』にでてくるし『唐物語』で取り上げられてるし、よく知らないけど『蒙求和歌』『言泉集』とかいう本にも紹介されているらしいです。
実は「孟光」って当時の日本では結構有名な中国女性だったのか…

まだまだ終わらない……、続きはまた明日。

行成の妻と梁鴻の妻・孟光(1)

昨日図書館へ行って行成集作成計画の為に行成の和歌についての注釈を探せるだけ探してきた際に(やると宣言した時点で資料そろえていなかったあたり、見切り発車も甚だしすぎ)講談社学術文庫の新刊『唐物語』が入ってるのが目に付きました。
『唐物語』というのは平安末期に書かれた上流女性向け中国説話集といったところ。
流麗な和文で書かれてます。
ほら一応女の人は漢籍読まない建前になっているから。
成立は12世紀半ばぐらいだったかな(解説読んだけど忘れました^^;)
それを手にとって、ペラペラとページをめくっていると「孟光」の二文字が!

たぶん「孟光」ってナンですか?って感じの方が多いと思います。
ちなみに私はなんなのか全く知りませんでした。
『権記』の中で行成が妻(源泰清女・姉君)の事をたまに「孟光」って書くので、なんだろな?と思っていた程度です。
嫁さんの名前にしてはなんかフツーと違うし(女の人は○子ってのが流行じゃないですか、この頃って)仮に名前だとしても妙に猛々しい名前だなと(←「孟」と「猛」が混乱しています)
とある本に、行成が嫁さんのことを「孟光」と書くのは『後漢書』に出てくる梁鴻の妻「孟光」になぞらえているか…という記述があり、どうやらその「孟光」さんは賢妻とのこと。
もしかしらた行成の嫁さんの人柄の手掛かりになるかも~vと早速『後漢書』を確認しにいったのですが、白文もしくはレ点が付いている程度の本しか発見できず、それコピって終了。
読むのがめんどいとの理由で放置して今に至ると…(ダメじゃん)

『唐物語』には「孟光、夫の梁鴻によく仕ふる語」という題で載っていました。
タイトルからして良き妻っぽそうです。
元ネタは『蒙求』の「孟光荊釵」でコチラは幸い注釈付きの本がありました。
で、読んでみると『唐物語』には「比類ないほど醜くて、彼女を見た人はビックリしてその事を人に語らずにはいられないほど」とあり『蒙求』には「肥満で醜くて色黒で石臼持ち上げちゃうくらい怪力で選り好みして30歳になっちゃいました」とあって、もの凄い勢いで行成の嫁さんの容貌が心配になってしまったという…(滝汗)

長くなるので続きは明日(ここで中断するのかよ…)

注:この記事を書いたのは数年前です。昨日と言っても平成17年8月14日の事ではありません。

行成の和歌(7)

   梨の花に時過ぎたる実のつきたるに、右大弁

  春ふかみ深山がくれの花なしと いふにつけてもわきぞかねつる

   返し

  常ならぬ身をぞ恨むるならぬより 花なしといふ世にこそありけれ

   又かくてはとて

  ありといふ程だにあるをかつ見つつ 花なしといふ春をこそ思へ

訳(行成の和歌):春が深まり「深山隠れの花なし」とおっしゃるにつけても、
         その真意をはかりかねてしまいます。
        (ほら、この枝のように花も実もある貴方なのに
         いつまで引き籠もっているおつもりですか?)

訳(公任の返歌1):人並み以下の我が身が恨めしい。
          大成する前から華ナシと決めつける世間だったのだね。

訳(公任の返歌2):梨の実のことを「有りの実」という時もあるのだと思う一方で、
          この枝を見ながら花なしと嘆く春を思うのです。

『公任集』より、斉信に位階越された為いじけて長期引き籠もり中の公任に贈った行
成の和歌と公任の返歌。
この歌の詠まれた背景について、公任サイドの事は詳しくない(というか資料の持ち
合わせがない…)ので行成サイドから見てみたいと思います。
寛弘元年(1004)10月21日に正三位権中納言だった斉信は、同日行われた一
条天皇の北野松尾平野行幸に従い還御後御苦労さんの賞で従二位に叙されます。
この時、正三位中納言として斉信の上席にいた公任(と時光)の位を越えてしまうん
ですね。
それが相当悔しかったらしく、公任は一年近く出仕拒否をします。
『公卿補任』寛弘二年の公任のトコロには「去年十一月以後出仕セズ」って書いてあ
るし…
小野宮さんの日記や御堂さんの日記はどうだか知りませんが、行成の日記『権記』に
は寛弘元年11月23日の賀茂臨時祭に出席しなかった人リストに名を連ねて以降、
翌年の7月21日まで公任は登場しません。
で、その寛弘二年7月21日、具平親王邸に詣でた行成はそこで「公任が今日辞表を
提出したよ…」と伝えられます。
結局その辞表は返され公任は一階加えられて従二位となります。
良かったね~と言いたいところですが、斉信には追い越されたまんま。
結局最後まで斉信より下位に甘んじることとなります。
この二人、歳が近いからね…(公任は斉信の一つ年上)、お互い相当ライバル心燃や
してそうでコワイです。
公任出仕再開後に斉信と顔会わせた際どんな空気が流れたのか…想像するだに背筋が
凍る。

さてココからは恒例の電波(訳の時点ですでに電波ゆんゆんでしたが^^;)
行成の和歌は、先に道長と公任との間で交わされた贈答の公任の返歌を踏まえている
という説があり、私の電波もそれに拠ってます。
その道長と公任の贈答歌を『公任集』から

   世すさましうてこもりゐるころ、大殿(道長)より、春(寛弘二年の春)の事
なり

  谷の戸をとぢや果てつる鶯の まつに声せで春も過ぎぬる
(谷の戸を閉ざしてしまったのか。鶯の声を聞くのを聞くのを待っていたのに音沙汰
無く春が過ぎてしまったよ)

   御返し

  行きかへる春をもしらず花さかぬ深山がくれの鶯のこゑ
(春がめぐってきていたことも知らず、花も咲かない深山の陰で啼く鶯なのです)

おそらく道長邸に行った際にでも、道長から公任の和歌を見せてもらったのでしょ
う。
行成はベコベコに凹んだ公任を励ますべく一計を案じます。
梨の花に季節外れの実がなった枝(おそらく造花(実が作り物?))に歌を添えて贈
りました。
和歌の意味が非常に取りにくくパーな頭をかなり悩ませましたが、結局行成が言いた
かったことは拙訳の( )の中の事なのではないかと。
歌を結びつけた「ナシの花にアリの実の枝」は秀句(洒落)好きな行成ならではのセ
ンスなんでしょうね。
その歌を受け取った公任は……鬱入ってる人間というモノはなんでもマイナス方向に
とらえてしまうのか、もの凄い勢いでいじけてます(^^;)
さすがにこれではいけないと思ったようで、もう一首詠んでますケド。

余談ですが、梨の花について清少納言は『枕草子』でこんなふうに書いています。

 梨の花。酷くつまらない花だということで、身近に鑑賞したりしないし、ちょっと
した文を結びつけるのに使ったりすることさえもない。
ブ…魅力の乏しい女性の顔などを見て喩えに使うのも仕方ないわね。葉の色からして
イケてないのだけれど、唐の国ではこの上もなく素晴らしい花として詩にしている。
やはりそうはいっても、唐でもてはやされるのは理由があるからに違いないと、よく
よく見たら花びらのはしに洒落た色がね、ほんのりとついているの。
楊貴妃が帝の使者に会って泣いた顔を『梨花一枝、春雨を帯びたり(『長恨歌』)』
などと表現したのは、いいかげんなことではないのでしょうと思うにつけても、やっ
ぱり梨の花の大変な魅力というのは彼の国の人にとっては比類なきものなのねと思っ
たわ。(三十四段「木の花は」)

清少納言は梨の花に好意的ですが、平安貴族の梨の花に対する一般的な評価というの
は相当悪かったようですね。

行成の和歌(6)

   女の思ひに侍りける頃、石山に詣でて、詠み侍りける
                        権大納言行成

  都にて待つべき人も思ほえず 山よりふかく入りやしなまし

訳:都で待っていてくれる人もいるとは思えない。
  いっそ出家してこの石山よりも奥深く入ってしまおうか。

深い仲にあった女性が亡くなり喪に服していた頃、石山寺に詣でて詠んだ歌。
その女性とは…最愛の妻・源泰清女(姉君)だと思われます。
確定はされていないようなのですが。
でも彼女以外に行成をここまで嘆かせる女性が他にいるとは思えません。
以前「孟光」ネタでもちょっと触れましたけど、源泰清女(姉君)が亡くなったのは
長保四年(1002)十月十六日です。奥さん没後に石山寺へ詣でているかと『権
記』をチェックしてみたら、十二月五日に石山寺に詣で八日に帰京したとあります。
なので、この和歌が詠まれたのはその時でしょう。
ちなみに前日の十二月四日に行成は、泰清女(姉君)の七七忌(四十九日)の法事を
しています。
この歌は『続古今和歌集 哀傷歌』に採られた勅撰歌です。

行成さまの詠んだ歌の中で最も好きな和歌の一つです。
円融院葬送の際に詠んだ「遅れじと~」の歌もですが、彼って変に技巧に走った和歌
よりも心情をそのままに吐露した和歌の方が個人的に好きですね。
なんにせよ、行成さまにここまで言わしめる泰清女(姉君)
…女冥利に尽きるというか、マジで羨ましいです

行成の和歌(5)

    皇后宮うせさせたまひし頃、成房少将につかはしける
                          右大弁行成     

  世の中をいかにせましと思ひつつ 起き臥す程に明け暮らすかな

    返し
                           少将成房

  世の中をはかなきものと知りながら いかにせましと何かなげかん

訳(行成):この世をどうしようと思いながら 
      寝起きするうちに無駄に日月が過ぎてゆくのだな…

訳(成房):この世をはかないものと知っていながら 
      どうしようかなどと何故嘆くのでしょうか

長保二年(1000)12月19日の『権記』にある和歌。
贈答相手は行成の従兄弟の藤原成房くん(19歳)
まずは得意の口誤訳で『権記』のこの箇所を見てみましょう。

早朝、苔雄丸を遣わして、成房少将の許に手紙を送った。
その内容は…
「  世の中をいかにせましと思いつつ 起き臥すほどにあけくらすかな
   (この世をどうしようと思いながら 寝起きするうちに無駄に日月が過ぎてゆ
    くのだな…)
しかるに世間は無常の頃。視るにつけ聴くにつけ、ただ悲しみの気持ちが湧き起こっ
てくる。心中のしのびがたい思いをぬきとって心に隔てない貴方に示すのだ」
参内の後、陣の座の脇で成房からの返事を見るとそれには、
「  世の中をはかなきものと知りながら いかにせましと何かなげかん
   (この世をはかないものと知っていながら どうしようかなどと何故嘆くので
    しょうか)」
そう書かれてあった。

この和歌の贈答がされた前日、行成は成房と同車して世の無常について語り合ってい
ます。
そして、その二日前の16日には一条天皇皇后・藤原定子が女児(〔女美〕子内親
王)を出産し24歳で亡くなっています。
行成の「□則世間無常比、觸視觸聴只催悲感」といった気持ちはモロに定子崩御の影
響を受けていると思われます。
それに対して、妙に突き放したような印象を受ける成房の返歌。
この時、成房は出家する気満々だったからこんな返歌になったのではないかと。
実際この歌をやり取りした日に成房は出家するべく単身飯室に向かいます。
結局、この時は父の義懐や慌てて追いかけてきた行成の説得を受けて断念するのです
けれど。

↓こっから下はどーでもいい電波。

さてさて、この和歌二首、漢文日記である『権記』の中では漢字で書かれてありま
す。
その当て字っぷりがね、結構面白かったりするんです。特に成房の和歌の方。

  世中乎無墓物ト乍知如何為猿と何加歎鑒

こういった風に書いてあるのですが、当然成房から贈られてきた和歌そのものは仮名
でサラリと書かれていたと思うのです。
それを行成が日記に記す際にわざわざ漢字に変換したのでしょうが、ここで注目した
いのは「はかなきもの」に該当する「無墓物」。
「墓無き物」だなんて不穏です。不穏すぎます。
もっとフツーに「果無し・果敢無し・儚し」で良いんじゃないかと思うのにあえて
「墓無し」です。
「だから何?」と言われると何も考えてないのでなんとも言えないのですが(爆)、
「はかなし=墓無し」に変換してしまった行成の思考回路が妙に気になるというお
話。

そんな行成は散骨好きです(好きって言い方も変ですが)
最愛の妻泰清女(姉君)が亡くなった時に散骨してますし、外祖父の源保光&母親の
保光女の遺骸も、後にわざわざ改葬して鴨川に流してるくらいですから。
散骨…墓を作らない葬法ですね。まんま「墓無し」ってわけです。
ま、この頃は墓地そのものはそれほど重視されず、供養はもっぱら故人ゆかりの寺で
行われるので、行成が取り立てて薄情だったってことでは決してないのですけれど。
この行成の散骨思想…当時としてもかなり少数派なのにそれをやる所に彼の信念が感
じられるのですが、調べたら泥沼にはまりそうなくらい奥深いので、今は深入りする
のは止めておきます。

ちなみに上の話は、現存『権記』がオリジナルの『権記』を忠実に一字一句違えず
(少なくとも該当個所が)書写されたという勝手な前提のもとに書いてます。

行成の和歌、だらだら生活している私にとって非常に痛い所を突いてくる図星歌だっ
たりします…

行成の和歌(4)

     東三条院石山にまうでておはしましけるに秋のつくる日
     人々うきはしといふ所にまかりて帰りがてにして歌よみ
     侍りけるに

                          権大納言行成

  君が世に千たび逢ふべき秋なれど けふのくれをばをしみかねつも   

訳:東三条院さまの世に千度めぐり来る秋ではありますが、
  今日が日暮れてしまうのを惜しんでも惜しみきれません

今回のは注釈書を見付けてきておりませんので、電波垂れ流しなのをあらかじめお詫
しますm(_ _)m

東三条院藤原詮子の石山寺参詣にお供した際に「うきはし(浮橋?)」というところ
で詠んだ歌。
詮子は石山寺がかなりお気に入りのようで、秋に行ったのだけでも長徳二年(99
6)九月下旬・長徳三年八月上旬・長保二年(1000)九月中旬と三回もありま
す。
このうち長保二年は行成は同行していないので却下。
長徳三年は日程的に微妙(ちょうど詮子が石山に行ったと思しき日の記事がないので
すが、その直前後の記事がクソ忙しそうで呑気に石山詣でにくっついて行ってるバヤ
イじゃなさそうなのと、旧暦とはいえ八月上旬ではまだ紅葉とかしてなさそうで、惜
しむほどのものはなさそう…)なので保留。
長徳二年の記事は丸々残っていないので、(『権記』からは)確認は取れませんが、
時期的にも可能性はこっちの方がアリかな?と(ただ、この年だと、伊周隆家の左遷
騒ぎでバタバタしてますけどね…)
とすると、行成25歳・蔵人頭左中弁の時の歌?
もし勘違いも甚だしすぎだったらツッコミ下さい。

『新拾遺和歌集巻七 賀歌』に採られているだけあって、上の句あたりが長寿を言祝
いでおります。
勅撰集に採られてはおりますが、出来の方としてはいかがなんでしょう?
個人的には、ほのかにゴマの香りのするフツーの歌だなと思います(←ナニサマ)

むかし行成の和歌を調べた時のメモに、何故かこの和歌と一緒に藤原公任の「我だに
もかへるみちはものうきを いかで過ぎぬる秋にかあるらむ」という和歌“だけ”が
書きつけてありました。
何を意図してメモったのか自分……
調べてみたら『玉葉和歌集 秋歌』のようで、こちらは円融院が石山寺に詣でたとき
に、同じように「うきはし」で詠んだものらしいのですが、なんでこれを一緒にメ
モったのか、サッパリ思い出せません(爆)

行成の和歌(3)

   権大納言行成、物語などし侍りけるに、内の御物忌みに籠もれば
   とて、急ぎ帰りて、つとめて、鶏の声にもよほされてと言ひ
   をこせて侍りければ、夜深かりける鶏の声は函谷関の事にやと、
   言ひつかはしたりけるを、たちかへり、これは逢坂の関に侍る、
   とあれば、詠み侍りける

                          清少納言

  夜をこめて鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

    返し
                        権大納言行成

  逢坂はひと越えやすき関なれば 鶏鳴かぬにもあけてまつとか

訳(清少納言)
  夜が明けないのに鶏の鳴き真似でだまそうったって、
  決して逢坂の関守は許しませんよ。

訳(藤原行成)
  逢坂は人が越えやすい関だから、
  鶏が鳴かなくても開けて待っているそうだよ

枕草子の訳はこちら→『枕草子百三十段』
向こうでは和歌の内容について流してますが、
こっちではしっかり書いていておきます(・◇・)

行成が「明日は主上の物忌みだから~」と言い訳して帰っていった翌朝、
彼から後朝ちっくな手紙が清少納言のもとに贈られてきました。
「鶏の声に急き立てられちゃって」なんて書いてあったものだから、
清少納言は孟嘗君の故事を思い浮かべて「夜中に鳴く鶏って孟嘗君のよね?」と返し
ます。
折り返し行成から「孟嘗君のは函谷関だけど、僕のは逢坂の関だよ」とあったのに触
発されて、
清少納言は和歌を詠みます。
「鶏の鳴き真似で函谷関の関守はだませても、男女相逢う逢坂の関守はだまされたり
しないわよ。私はガードが堅いんだから」
この歌、『後拾遺和歌集 雑二』に収録され、さらに『百人一首』に採られたおかげ
で古典に詳しくない人でも一度は耳にしたことがある超有名な和歌となっています。

一方、行成の和歌はというと……
彼の和歌は、むしろ訳いらねーだろ、ってくらいそのまんまです。
裏の意味ですか?
セクハラものですがな。
「何言ってるの、貴女は来る者拒まずのオープン女だろ?」といった所でしょうか
(爆)
フォロー(?)を入れとくと、逢坂の関はこの頃すでに関としての役割は果たしてお
らず出入り自由ではあったそうです。

ごくたまに一般向けの「百人一首」の解説本なんかで、この歌の詠まれた経緯のおか
げかヘタレ男として紹介されて、清少納言にピシャリとやられている行成を見かけて
生暖かい気分になります。
まぁ自業自得…なんでしょうケド(苦笑)

(詞書きは『後拾遺集』の詞書きを参考に、ちょこっといじってます)

行成の和歌(2)

     円融院法皇うせさせたまひて、紫野に御葬送侍けるに
     一とせこの所にて子の日せさせたまひしことなど思ひ
     出でてよみ侍りける

                          大納言行成

  遅れじとつねのみゆきはいそぎしを 煙にそはぬたびのかなしさ

訳:遅れまいと、いつもの行幸では心急かして同行しておりましたが、このたび死出

  旅路へと立たれるあの煙には御一緒する事ができず、それがなんとも悲しいので

正暦二年(991)2月12日に円融院は崩ぜられ、葬送は19日。
行成20歳の時のことでございます。
この歌は行成の和歌中一二を争うほど有名かつ秀歌なのではないかと。
勅撰集の『後拾遺和歌集 哀傷』の他、『栄花物語』『十訓抄』でも紹介されていま
す。
『栄花物語』の方は既にサイト内で紹介済ですので参考までに→コチラ

ストレート過ぎるほどに悲しみを詠んだ和歌。
どうぞ心ゆくまで行成の和歌に・悲しみに浸ってください。

行成の和歌(1)

寛和二年内裏歌合に       権大納言行成

  漁り火の浮かべるかげと見えつるは なみのよる知るほたるなりけり

訳:漁り火が浮かんでいる光だと見えたのは、波の寄る夜を知る螢なのだった
※「よる」に、寄せる波の「寄る」と漁り火の縁語「夜」を掛ける。

寛和二年(986)6月10日の内裏歌合で詠んだ歌です。
行成この時なんと15歳!
数えで15歳だから満年齢だと14、下手すりゃ13歳です。
中学二年生だよ、中二!
ちなみにこの時の歌合、斉信・公任・道長も参加していたらしい。
それより何より、この年、この月といったら『花山天皇退位事件』じゃないですか!
兼家の意を受けた道兼に騙されて花山天皇が出家してしまうのはこの月の23日で
す…

さて、通釈を紹介するだけではなんなので電波解釈を
最初注釈書を見ずに適当に解釈しようとしたら「なみのよるしる」という言葉を上手
く訳せずつまずきました。
何に引っ掛かったのかというと「なみ」と「よる」と「しる」です(全部じゃん)
「なみ」が「波」なのはともかくとして「並み」でもあるんじゃないかと思ってしま
い、さらに「よる」は私の脳内では「夜」しかなくトドメの「しる」に「男女の交わ
りをする」の意味があるのを辞書で見てしまった。
さらに「ほたる」は恋に身を焦がすという形で和歌に詠まれることが多い云々…とい
うのを思い出したりして出した結論が、
「漁り火みたいにゆらゆら揺れてる灯りは一体何かと思ったら、世間一般の恋心
(つーか男女の交わり)を知ってしまった萌え燃えの男がうろついているのでした」
というしょーもないシロモノ(爆)
こんな意味の歌を内裏歌合に詠む中学二年生なんてヤダってことで却下です却下。
言い忘れてましたが『続古今和歌集 夏歌』に収録されている勅撰歌です。

こんなザマで、本当に注釈書がない和歌の解釈は一体どうなるのやら……

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